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東京都西東京市保谷町5-6-29

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男女ノ川

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横綱連敗1A

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	  2015 traverese16  大興城(隋唐長安)の設計図-中国都城モデル(2)A Plan of Chang'an- A Model of Chinese Capital
	大興城(隋唐長安)の設計図-中国都城モデル(2)A Plan of Chang'an- A Modelof Chinese CapitalShuji Funo布野修司 前漢長安城とは異なり,隋大興城は予め全体計画に基づいて建設された。計画に当たっては,全体の規模をどう決め,土地の区画,空間の配分をどのように決定するかが第1に問題となる。長安城については,平岡武夫(1956)の開元・天宝年間の盛唐期を中心とする復元があって定説とされてきた(図1)[1]。田中淡(1989)も,隋唐長安に関する研究成果は,解放後の調査結果も含めて平岡武夫(1956)に集約されているとしたが,ここではその後の復元案も含めて検討を加え,独自の案を示したい。 平岡武夫は,東西6600歩(9702m),南北5575歩(8195.25m)を前提として復元図を示した。1歩=146.9cm=5尺(1尺=29.4cm)という尺度換算をもとにしている。叶驍軍(1986)が平岡武夫の復元図をもとに寸法関係を明らかにしているように,中国でもその復元図は影響力を持ってきた。復元案は,街区(坊)の形状・規模に5種あるとする。東西方向の街区(坊)幅は,650歩,450歩,350歩の3種,南北方向の街区(坊)幅は,400歩,550歩,325歩の3種である。そして,街路幅員については,南北大街は環塗も含めて全て100歩幅,東西街路(街道)については,皇城南は全て47歩幅,宮城・皇城の東西は,横街に繋がる開遠門-安福門・延喜門-通化門の東西大街は100歩幅,他は環塗を含めて60歩幅とする。そして,市については600歩四方,東西の坊との距離すなわち市に接する東西の大街の幅は125歩,南に接する大街の幅は100歩とする。この復元については,東西街路幅が47歩というのがすっきりしない。また,南北街路が全て幅100歩というのも疑問である。さらに,南北325歩というのは,以下にみる『三礼図』の記述にはない。そして実際,その後の発掘調査によると,南北の全長が実際は315歩ほど長く,坊間幅は平岡の想定(47歩)より短い,また,南北街路の幅員の大半は50歩前後である。全長を考えると,皇城南の坊は,南北350歩とした方が寸法的にも合う。徐松撰・愛宕元訳注(1994)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩(一部325歩)×650歩, 350歩(一部325歩)×450歩,350歩(一部325歩)×350歩の5種としている。 陝西省文物管理委員会[2]・中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊[3]は,東西9721m(6617.43歩=33087.1尺),南北8651.7m(5885.51歩=29447.6尺)とする。そして宿白[4]らによって復元図がつくられている(図2)。復元案の中で,各部分の寸法を示しているのが傳熹年(2001)である(図3)。ここでは,この復元図に示される実測値を出発点としたい。 傳熹年(2001)の復元図からは,直ちには明快な街区寸法,街路幅員の体系は窺えないが,注目すべきは,宮城・皇城の左右(東西)の東西幅(B)が等しく(左右対称),また,皇城・宮城の南北幅(B)に等しいこと,さらに,皇城南の街区の南北はこの皇城宮城・宮城の南北幅(B)の1.5倍(3×1/2B)という指摘である。第1に手掛かりとなるのが,宮城の東西幅(A)である。上述のように,『唐両京城坊攷』は,宮城は東西4里(1440歩),南北は2里270歩(990歩)そして,皇城(子城)は東西5里115歩(1915歩),南北3里140歩(1120歩)という。宮城・皇城合わせた区域の東西は1915歩,南北は2210歩となる。実測値は,宮城皇城の東西長さ(A)は内法で2820.3m=1918.6歩である。そして,宮城・皇城合わせた南北長さ(B)は,3335.7m=2269.2歩である。また宮城部分の南北幅は1492.1m=1015.0歩である。因みに,平岡武夫(叶驍軍(1986))は,東西幅を1900歩,南北幅を宮城960歩+皇城幅1220歩(横街300歩含む)=2180歩とする。こうした寸法は,どこからどこまでを測るかが問題である。条里制,条坊制についてみたように(Column1),芯々制(シングル・グリッド)をとるか,内法制(ダブル・グリッド)をとるかで大きく異なる。また,歩を単位とすることは前提であるとしても,実測値(メートル)の歩への換算単位次第で異なる。歩の値も時代や地域によって異なることは予め確認した通りである(第Ⅰ章2-3)。傳熹年(2001)の実測図をもとにした復元図には,街路の幅員と街区(坊)の規模が分けて記されている。すなわち,内法制が前提とされているようにみえる。しかし,その数値にはかなりのバラつきがあり,一定の体系は直ちには見いだせない。傳熹年が見出したのは,上述のように,A,Bという単位である。ということは,設計計画にあたって,まず,大きな区画が単位として設定されていたことを推測させる。そこで宮城の寸法を見ると,南北幅は960歩~1015.0歩,東西幅は1900歩~1950歩である。1,000歩×2000歩が予め設定されたのではないかと推定される。両端に接する南北大街の幅を100歩とすれば,芯々で2000歩という寸法となるからである。そして,宮城・皇城の左右の街区の東西幅を見ると,傳熹年(2001)の実測図に基づけば,3334.2~3458.5m(2268.2~2352.7歩)(2268.8歩(3335.7m=B)である。3分割されることから,750歩×3=2250歩という設計寸法が考えられる。環塗と城壁部分を50歩として加えると2300歩となる。東西全長は6600歩で実測値に合致する。そもそも傳熹年のB=2268.8歩は,宮城・皇城の南北長さである。『唐両京城坊攷』は2210歩(宮城:南北2里270歩(990歩)+皇城:3里140歩(1220歩))というから,これも2250歩が設定寸法であることが想定される。すなわち,傳熹年(2001)が示唆するように,宮城・皇城区域の左右街区の全体については2250歩×2250歩という寸法が設定されていたと思われる。宮城と皇城の間に横街があり,その幅を250歩とすれば(叶驍軍(1986)は300歩としている),宮城,皇城とも南北長さは1,000歩となるからである。皇城南の街区について見ると,傳熹年(2001)の想定によれば,南北の長さは3375歩(1.5B)である。南北は9分割されるから,均等に分けるとすると,芯々375歩(750/2)の坊に区分される。 すなわち,宇文愷は,基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系を設定したことが明らかになる(図Ⅲ-3 4)。ただ問題がある。南北の全長が実測値と合わないのである。以上の単純グリッドだと,南北長さは2250歩+3375歩=5625歩となるが,南北の環塗・城壁分50歩×2=100歩加えても,実測値5889.52歩より164.52歩短いのである。この差は無視しえない。そこで第2の手掛かりとなるのが,建設プロセスである。妹尾達彦(2001)によれば,最初に ①南北の中軸線(朱雀門街)と宮城の位置を決め, ②宮城を囲む禁苑と皇城をつくる,合わせて ③宮城を基点に,外郭城に6つの主要道路,六街をつくる,そして, ④六街を基準に,六街を含む東西12,南北9の街路をつくる,そして最後に, ⑤外郭城の城壁をつくるというのが建設プロセスである。もちろん,建設プロセスであって,予め全体計画はなされていたことは前提である。注目すべきは③である。六街とは,中軸線となる朱雀門街と宮城東西に接する南北大街,そして東西の主要門を繋ぐ3つの東西大街である。城外へ通ずる街路と門の位置はまず設定されたと考えられるのである。すなわち,皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街),そして,延平門-延興門を結ぶ東西大街が予め設定されることで,皇城南の街区は北の四街と南の五街が分けて設計されたことが考えられる。すなわち,そこでも基準線が南にずらされた可能性がある。以下に検討するが,六街の幅員を100歩とすると,75歩ほどずらして設定された可能性がある。さらに,実測図を見て気がつくのは,最南端の街区(坊)の南北長さのみが長いことである。南城壁の建設に関わって拡張された可能性が考えられる。以上,確認したのは,Ⅰ 基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されている,すなわち,Ⅱ 街区(坊)には,芯々で500歩×750歩(A),625歩×750歩(B),375歩×750歩(C), 375歩×550歩(D),375歩×450歩(E)の5種がある。すなわち,長安城は宮城,皇城とA~Eの街区(坊群)および東西市からなる,そして,Ⅲ 南北は大きく2ないし3つの区域に分けて計画されている,ことである。 さて,以上の基準グリッドと領域区分を確認した上で,街路体系と街路幅員について考察したい。街路体系によって,街区(坊)の形状と規模が規定される。これまでの定説によれば,街区(坊)の形状と規模には5種類ある。これは隋『三礼図』に「朱雀街第一坊東西三百五十歩。第二坊,東西四百五十歩。次東三坊,東西各六百五十歩。朱雀街西准此。皇城之南九坊,南北各三百五十歩。皇城左右四坊,従南第一,第二坊,南北各五百五十歩。第三坊,第四坊,南北各四百歩。両市各方六百歩,四面街各広百歩。」とあることを根拠にしており,復元の前提となっている。 この5種類の街区(坊)を前提とし,さらに傳熹年(2001)の復元図の実測値を基にする復元案として王暉(「日本古代都城城坊制度的演変及与隋唐長安里坊制的初歩比較」王貴祥(2008))の復元案(図Ⅲ-3 5 a)がある。王暉案は,平岡同様,南北街路幅は全て100歩とするが,皇城南街区の南北幅は350歩とし,坊間街路幅を40歩とする。すなわち,東西街路幅の47歩を不自然とみて,街路幅員として40歩,60歩,100歩という完数(ラウンドナンバー)を想定する。しかし,この復元案では南北の全長は5790歩となり,実測値に100歩ほど足りない。そこで,王暉は,南北を実測値5885歩に合わせ,実測図に合わせた修正を試みている(図4)。王暉論文は,参考文献の第1に,『アジア都市建築史』(布野修司編+アジア都市建築研究会(2003),布野修司編(2009)『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳)を挙げ,「乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察」[5]の図を引用している。寸法体系への関心は共有するが,設計計画案を実測図に合わせるために修整する意味は必ずしもない。王暉の修整は,今後の様々な遺構の発見に備えようとするものと理解したい。ここで問題にしているのは設計寸法であり,その体系である。実際には,施工精度,測量精度の問題でずれが生じるのは当然である。  王暉の復元案を前提として,東西坊間街路幅を40歩でなく50歩とすれば,全長は90歩増えて5880歩となり,かなりすっきりとした体系になる。皇城・宮城の東西についても坊間街路幅は50歩として復元案を示すことができるから,坊間街路の幅員は,南北街路については全て100歩,東西街路は(東西のそれぞれ三門を繋ぐ三街(幅100歩)を除いて)全て50歩という案になる(王暉案は,六街の1つである延平門-延興門を結ぶ東西大街の幅は100歩としていない)。 隋唐長安城の通説とされている復元案は極めて単純な概念的寸法体系によって示すことができる(図5)。Ⅳ 通説とされている復元案は,南北街路幅は100歩,東西街路幅は六街(100歩)を除いて50歩であり,街区(坊)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種(『三礼図』)からなる。しかし,問題は,この通説の寸法と実測値が大きくずれていることである。街路幅員には大きなばらつきがある。傳熹年(2001)の実測図によれば,南北街路幅が全て100歩ということは想定できない。六街と他の街路との間に区別を設定したと考えられるし,実際,大街,小街のヒエラルキーがある。傳熹年(2001)の実測図によれば,宮城・皇城に接する東西横街,朱雀門街を除けば,坊間の南北街路幅は42~68m(28.6~46.3歩),東西街路幅は39~55m(26.5~37.4歩)である。小街は大街の半分程度である。また,坊の大きさもまちまちで,以上の前提(Ⅳ)より総じて大きい。宮城の東西は,400歩×650歩とされるが,483歩×694歩~765歩,皇城の東西は,550歩×650歩とされるが,508歩~561歩×694歩~765歩である。さらに,皇城南,東西の街区は350歩×650歩とされるが,340歩~391歩×694歩~765歩,皇城直南の街区は,350歩×450歩,350歩×350歩とされるが,340歩~391歩×465歩~476歩,340歩~391歩×380歩~382歩である。Ⅴ 通説(Ⅳ)は,否定される。基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されている(Ⅰ)と考えるのは,実測値にばらつきがあるからである。そこで,実測値に近い街路体系,街路幅員について試案を示すと以下のようになる。Ⅵ 長安城の街路体系 試案①六街の幅員を100歩とする。そして,②環塗と城壁を合わせて50歩とする。と,宮城・皇城の左右の街区の東西幅は2200歩(2250歩-50歩)となる。各坊の東西幅を700歩とすれば,南北小街の幅員は50歩となる(700歩+50歩+700歩+50歩+700歩)。また,宮城皇城の南北幅は,450歩+50歩+450歩+100歩+550歩+50歩+550歩+50歩=2250歩に,すっきり分割できる。すなわち,③宮城の東西の坊は450歩×700歩,皇城の東西の坊は550歩×700歩とする。坊間街路幅は東西,南北とも50歩とする。南北街路(小街)幅は,単純に朱雀門街など六街の半分という設定が行われたのではないかと考えられる。そこで,④南北街路(小街)幅は全て50歩とする。皇城直南の東西幅は,100歩+475歩+50歩+375歩+100歩+375歩+50歩+475歩+100歩に分割される。皇城直南の坊の南北幅については,以下の坊の分割に関わる議論が必要であるが,通説に従って350歩としよう。すなわち,⑤皇城南の東西街路幅を25歩とする。すなわち,⑥皇城直南の坊は,350歩×475歩,350歩×375歩とする。⑦皇城南東西の坊は,350歩×700歩とする。問題は,基準グリッドと六街との接続をどう考えるかである。すなわち,皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街),そして延平門-延興門を結ぶ東西大街と基準グリッドをどう重ねるか,という問題が残る。100歩の幅を厳密に設定すると,基準線からのずれを,それぞれ,α=37.5歩,β=75歩とすればいい。なお,南北全長の実測値とのずれは,南端に残る(γ=97.5歩+50歩)。 各街区(坊)の構成を考えよう。出発点とするのは基準グリッド(Ⅰ)である。皇城南左右の街区の各坊は,最南端の一列を除いて,基準グリッドとして設定した芯々375歩×750歩のグリッドに収まっている。坊間の南北街路を30歩,坊間の東西街路幅を15歩とすれば,丁度,各街区は内法で南北1里(360歩)×東西2里(720歩)となる。街区規模は単純におよそ1里(360歩)×東西2里(720歩)と設定した可能性が高いのではないか。後述のように,同じ宇文愷の設計になる洛陽の場合,1里(360歩)×1里(360歩)(300歩×300歩)のグリッドが採用されている。  基準グリッド(Ⅰ)を前提として,通説の400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種の坊は,坊間街路幅の設定(100歩,75歩,25歩)によって導き出される。南北街路は全て100歩幅,東西幅は,Aについては100歩幅,Bについては75歩幅,C,D,Eについては25歩幅とすればいい(図Ⅲ-3 8)。こうした指摘はこれまでないが,数字の体系として一貫性のある提案となる[6]。しかし,基本は面積の単位である。街区(坊)の分割を考える場合,1里=360歩を長さの単位とするのは極めて自然である。250歩×250歩というグリッドの単位も,1畝=240歩×1歩が意識されていると考えていい。周回に坊墻と環塗合わせて5歩の幅をとれば240歩四方となるのである。Ⅶ 面積配分の単位となるのは,方1里(360歩×360歩),1畝=240平方歩である。そして,坊の分割単位,構成単位がまず問題である。 史資料から各坊は十字街によって,あるいは東西横街によって分割されることが明らかにされている。韋述『両京新記』の建物の記述をもとにその区画を詳細に検討した妹尾達彦によれば,A,B,Cは4×4=16分割,D,Eは4×3=12分割される。王貴祥[7]も同様に,朱雀大街以東が中心であるが,『両京新記』『長安志』『唐両京城坊考』の記載をもとに街区分割のパターンを調べあげている。Ⅷ 宮城皇城の東西の坊は,大小の十字街によって,1/4,1/16に分割される,また,皇城直南の坊は,横街によって,1/2,さらに1/6に分割される。  王暉[8]は,350歩×650歩,そして350歩×450歩という坊を,それぞれ4×4=16分割(A,B,C), 4×3=12分割(D,E)のモデル街区(坊)として,宅地分割のパターンを示している。基本的には24歩×10歩=1畝を単位として,大十字街の幅を10歩,小十字街の幅を4歩,宅地列間の路幅を3歩とする(図Ⅲ-3 9)。王貴祥等(2008)は,一般的に大十字街の幅員を全て30歩とするが,上での大街(六街),小街の幅員の検討からみても広すぎる。実際,宮城西,北城壁に接する安定坊の遺址の図面を測ると,小十字街の東西街の幅は4.95歩~7.05歩,南北街幅は3.28歩である。王暉の復元は妥当と思われる。そして,均田制に関連して第Ⅰ章(2-1)で触れたが,宅地の班給は身分に応じて,九品以下は1畝,九品2畝,八品2.5畝,七品3.5畝,六品4畝,従五品5畝,五品8畝・・というように畝を単位として行われたと考えられるから,畝を単位とした分割パターンを想定するのは当然である。ただ,王暉の場合,24歩×10歩=1畝の宅地が3列に並んで坊内の単位区画を構成していたとするにとどまる。  それに対して,欧陽恬之[9]は,専ら尺度,寸法関係を手掛かりとして,全ての坊の類型について,分割パターンを検討している(図Ⅲ-3-10)。坊墻壁幅を2歩,環塗を10歩,十字街の幅員は10歩(もしくは16歩[10]),小十字街の幅員は5歩とする一貫性のあるモデルの提示である。第1に,50歩×50歩を基本単位とするわかりやすい根拠がある。24歩×10歩=1畝の土地を東西に5ずつ南北に並べ,間に2歩の路地をとれば,10戸の土地の単位となるのである(図Ⅲ-3-11)。16歩という街路幅の数字にはややすっきりしないが,欧陽恬之の復元は,王暉の想定とともに実測値に即しているといっていい。そして,注目すべきは,以下に見る平康坊について340歩×695歩という復元案を示していることである(図Ⅲ-310f)。すなわち,350歩×650歩という単位は必ずしも実施されていないことを認めているのである。 唐代の坊肆,住宅などの遺址として確認されているのは,永嵩坊道路遺址,平康坊滲井遺址,長楽坊窯址(碑林区),普寧坊窯址(蓬湖区),崇化坊建築遺址(雁塔区)である。もちろん,その他に,多くの寺観,園林の遺址があり,坊の復元の根拠とされる。朱雀門街以東の全ての坊を調べ上げた先述の王貴祥は,唐長安里坊内部分住宅基址の規模を列挙している。どう計測したのかが不明で,1畝以下の宅地も多く,必ずしも明快な面積単位は見出せないが,上記のように,坊が大小の十字街によって,1/4,1/16に分割されること(また,横街によって,1/2,さらに1/6に分割されること)は前提となる。  賀従容は,平康坊を対象として,その構成を検討している[11](王貴祥等(2008))。『両京新記』『長安志』『唐両京城坊考』『隋唐両京坊里譜』をもとに710年以前,710~740年間,750年~860年に分けて,平康坊に存在した寺,宅院をまず確認し,各宅院の面積を推定する。そして,平康坊の分割パターンを2つ示した上で推測図を示している。賀従容が念頭に置くのは平安京の四行八門[12]制である。すなわち,2つの分割パターンは,ともに4×8=32区画を基本にしている。賀従容が続いて取り上げる興道坊の復元は,まさに四行八門の分割パターンそのものである。ただ,以下に続いてみるが,賀従容は,結論として,王暉,欧陽恬之の提起する24歩×10歩=1畝が3列に並ぶ街区(24歩×10歩=1畝の宅地を15×3=45配置する)案に従うようである。賀従容(2012)では,平康坊とともに宣陽坊をとりあげて,その街区構成を示している。賀従容(2012)は,また,各宅地の空間構成についても復元案を示している。出土した宅地模型がその大きな根拠となる。さて,以上をもとに,坊の分割パターンのモデルを提示したい。Ⅸ 方一里坊モデル  ①240歩=1畝制は実にフレキシブルな分割を可能にする。1畝の土地の形状の全てを検討する必要はないだろう。住居(四合院)の空間構成(間口)を考えれば,40歩×6歩,30歩×8歩,24歩×10歩,20歩×12歩,16歩×15歩といった単位を考えればいい。②方一里,360歩×360歩の正方形の坊を,坊墻壁を含めた環塗(幅10歩)で取り囲むとすると,340歩×340歩が区分される。それを幅10歩の十字街で4分割し,さらに幅5歩の小十字街で4分割すると,80歩×80歩が街区の基本単位となる(坊の1/16)。すなわち,80歩×80歩を基本単位としたというのが,本書が提起する新たな説である。 そして考えられるのは,X,Y,2案である(図Ⅲ-3 15xy)。③Xは,1/16坊=25畝(5×5),1/4坊=100畝,坊=400畝という構成になり,Yは,1/16坊=24畝(3×8),1/4坊=96畝,坊=384畝という構成になる。中国の研究者たちは,Y説とするが,宇文愷の設計図はXであったと考える。1/4坊=100畝という設定は極めて単純である。Ⅹ 坊の類型モデル  Xを基本として,坊の類型毎に分割パターンを示しておこう(図Ⅲ-3 16ab)皇城南,東西の坊は360歩×720歩でいいであろう。皇城直南は,360歩×360歩と360歩×420歩とすればいい。 以上で,大興城の設計図を完成し終えた。同じ,宇文愷の設計になる東京城(洛陽)の空間構成をみた上で,隋唐長安の都城理念についてまとめたい。  徐松『唐両京城坊攷』は,続いて「東京」について記述する(「巻5東京」)。東京は,東都ともいう。煬帝は即位(604)後すぐさま洛陽へ行幸,新都建設を表明,直ちに建設に着手するとともに,翌大業元(605)年,天下の富商・大賈数万戸を東京に移させている。宇文愷は,東都の造営に営都副官として関わり,乾陽殿,顕仁殿など主要な宮殿の設計をおこなう。この隋唐洛陽については,長安に比べると知られることが少ない。基本的に,宇文愷は,大興城と同じ理念に基づいて設計したとされるが,坊の規模は小さい。「東京」の場合,地形,河川の制約を大きく受けており,軸線もやや傾いている。東街(左京)のみしか区画されていないし,宮城や皇城の構成はほぼ同じといっていいが,東城の存在などかなり異なっている。西京についても徐松『唐両京城坊攷』に拠って,まずその空間構成を確認しよう。宮城・皇城については,発掘作業が進展し,詳細な復元が試みられている(図Ⅲ-3 17)。また,道観,仏寺,宅園などの分布も明らかにされてきている。 宮城は隋代には紫微城といい,貞観6(605)年に洛陽宮と称し,武則天の光宅元(684)年に,東都を神都と改称した際に,太初宮と改称している。紫微とは,天帝の居所である天空の中心とされた北斗七星の北に位置する星座(小熊座を主とする星座群)をいう。徐松によれば,洛陽の皇城宮城は以下のような構成であった。①「東西四里一百八十八歩,南北二里八十五歩,城周一三里二百四十一歩,城高四城八尺」で,「以象北辰藩衛」と徐松はいう。すなわち,北極星をとり囲む藩垣として衛護するかたちを象ったものという。規模は,長安と比べると東西はやや長く,南北はやや短いがほぼ同じ規模である。②宮城内に東南隅の東宮と西北隅の皇子,公主の居所の二隔城あり,北側に円壁城,曜儀城の二隔城が接している。東宮の配置は長安と同じであるが,他の隔城の存在,特に北面に隔城が配されるのは長安とは異なる。神都苑(禁苑)は宮城,皇城の西に位置し,北辺に禁苑が存在しないのは長安とのかなり大きな違いである。③宮城の南面に4門,東面に1門,西面に2門,北面に2門開かれている。正南門は応天門であり,北門の玄武門,皇城南門の瑞門,さらに外郭城南門の定鼎門が南北中軸線上に並ぶ。④宮城の正殿は,応天門の北に配置される含元殿で,北へ貞観殿,徽猷殿が順次南北に配置される。徽猷殿の北に陶光園があり,園の北に玄武門が位置する。含元殿が大明宮と同様外朝としての役割を果たしたのは言うまでもないが,皇帝が日常の朝見を行ったのは貞観殿ではなく,含元殿の西に位置した宣政殿であり,その北に観文殿,さらに同心閣が配置される。他の宮殿の配置は省略するが,外朝,中朝,内朝の三朝構成も長安とは異なっていることが徐松の記述から知られる。 ⑤隋代には大微城,また,南城,宝城といった。大微垣は,紫微の南にある十星からなる。「東西五里十七歩,南北三里二百九十八,城高三丈七尺」で,「其城曲折,以象南宮垣」と徐松はいう。すなわち,皇城が曲がっているのは,南宮垣を象ったという。南宮垣は,大微垣のさらに南の星座をいう。規模は,長安とほぼ同規模である。⑥南に3門,東に1門,西に2門,宮城との間には横街が東西に走って,日華門と月下門を結んでいる。皇城内は,南北四街(五街),東西四街が走り,全体は3×4=12街区からなる。⑦官衙は,東朝堂,西朝堂を中心として左右に配置される。太廟,中宗廟は東南隅の街区,大社は北東隅の街区に配されている。⑧東城は,「東面四里一百九十七歩,南北面各一里二百三十歩,西属宮城,其南屈一百九十八歩,属宮城之東南偶。高三丈五尺」という。東西幅は1里230歩で,南北は宮城の北辺から皇城の半ばまで,皇城部分は東に飛び出す形になっている。⑨上陽宮は,上元年間(674~76)に晩年の高宗のために造営された離宮である。禁苑の東,皇城の西南隅に接して建てられており,南側は洛水を臨み,西側を穀水が流れる。正殿は観風殿で,北に化城殿,さらに仙居殿が並んでいた。⑩神都苑は,隋の会通苑を継承し,上林苑ともいう。北は邙山を背にし,南は非山に及ぶ「周一百二十六里,東面十七里,南面三十九里」の広大な苑で,苑内で洛水と穀水が合流している。 東京城は,大業元年に築かれ羅郭城といった。唐の長寿2(693)年に李昭徳が増築し,金城と改称した。 ⑪「前直伊闕,后倚邙山,東出瀍水之東,西出澗水之西,洛水貫都,有河漢之象焉」という。すなわち,南は伊水が門闕になる地,北は邙山を背にし,洛水が都城内を貫通していて,銀河を象ったという。 ⑫城周52里,南面に3門,東面に3門,北面に2門が開かれている。「城内縦横各十街,凡坊一百十三,市三」,すなわち,城内には縦横各10街が走っており,坊数は約113,市は3つ(北市,南市,西市)ある。「当皇城瑞門之南,渡天津橋,至定鼎門,南北大街曰定鼎門街」,すなわち,南北中心軸線となるのは定鼎門街である。 徐松は,続いて各坊について順次記述していく。そして,最後に,洛渠,通済渠,通津渠,運渠,漕渠,穀渠,瀍渠,洩城渠,写口渠について,それぞれどの坊区を流れるかについて記述する。 史資料から概略以上のように知られる隋唐東都,洛陽については,実測図,中国科学院考古所洛陽隊「隋唐東都城址的勘査和発掘」『考古』1961年3期)に基づいて復元図が示されている。この復元図には附図があり,各坊の東西南北の長さも表の形で示されている。 ここでも,傳熹年(2001)の推定が最初の手掛かりになる。すなわち,一定の基準寸法,基準グリッドが用いられたと考えるのは自然である。傳熹年は,長安については,宮城・皇城の東西南北を基準と考えたのであるが,洛陽については,宮城の大内部分の東西幅1030m(A),南北幅1052m(B)が基準寸法で,皇城・宮城の東西南北(2080m×2065m)の,それぞれ約2分の1となっているとする(図Ⅲ-3 18)。長安と同様,1歩=1.47mで換算すれば,東西(A)700.7歩,南北(B)715.6歩となるが,実測値2080m×2065mは,1415.0歩×1404.8歩で,その2分の1は,それぞれ,707.5歩,702.4歩である。測定点が不明ではあるが[13],以上から,700歩が基準単位として用いられたのではないかと推定される。これを念頭に,各坊の規模を見ると,まず,洛河以南の坊の東西は,定鼎門から東へ470m(319.7歩),500m(340.1歩),515m(350.3歩),525m(357.1歩),505m(343.5歩),515m,525m,520m(353.7m),500m,平均508.3m(345.8歩)である。南北は,南から第6坊まで,520m,500~530m,505~530m,500m,470~525m,480m(1005m南市),480m(217m)である。すなわち,条坊は,芯々700歩の基準グリッドを2×2=4分割するかたち,すなわち,東西,南北が350歩程度の正方形が基本単位になっていることがわかる。東西南北の長さの違いは,大路,小路の幅の違いによる。 王貴祥は,隋唐洛陽の坊は方300歩として,白居易宅など城内の住宅遺址などの規模を基に宅舎の配置を2種復元している(図Ⅲ-3 19abc)[14]。隋文帝の度量衡統一の前後の問題となるが,1里=300歩制から1里=360歩制に切換ったとすれば,洛河以南については,芯々1里(360歩)の単純グリッドが基準とされていたと考えていいのではないか。この分割モデルは,長安の方1里(360歩×360歩)で示される(図Ⅲ-3-18)。長安と比べれば坊は小さい。一部には,さらに「方一里」を東西あるいは南北に2分する坊がある。西市は1坊分,南市は2坊分が当てられている。洛水以北については,以南とは異なる。北辺が斜めとなっており,安喜門の西と東も異なっている。安喜門の西は,3×4の単純グリッドをしているが,北辺を除くと坊の規模は,東西580m(394.6歩)×南北440~455m(299.3~309.5歩)である。300歩×400歩のグリッドが想定されていたと考えられる。安喜門の東は,大きく分けると3種のグリッドからなる。洛河北岸沿いの2坊は,650m(442.1歩)×455m(309.5歩)であり,中央の坊は470~500m×440~515m,左右の坊は,360~400m×440~545mと一定しない。すなわち,坊の形状から見ると,宮城皇城と洛河の南,洛河の北・安喜門西と東は,別の規格によって計画されたことが明らかになる。 さて,以上のように,隋唐長安洛陽の設計図,その寸法関係は明らかにできた。問題は,配置の原理であり,『周礼』「考工記」「匠人営国」条との関係である。既に確認したように,全体を108坊に区画したのは,中国全土を意味する9州と1年12月,9×12から得られる数であるとか,南北13坊が配されるのは,1年12月と閏月を加えた13であるといった説には必ずしも説得力はない。確認するまでもないかもしれないけれど,『周礼』「考工記」「匠人営国」条の都城モデルにそのまま当てはまるわけではない。①「方九里」については,「方」(正方形)ではなく,東西が長く,規模もほぼ倍(東西18.3里,南北15.5里)である。②「傍三門」については,ほぼ従っていると見ることができる。が,北辺の門は七門ある。そして,東西南辺の門の配置は等間隔ではない。③「国中九経九緯」については,徐松『唐両京城坊攻』の記述に従えば,10×13グリッドからなるから,環塗を含めなければ,9経×12緯,含めれば,10経×14緯となるから,従っているとは言えない。④「経塗九軌」については,上の検討に基づく南北街路(小街)幅50歩,東西街路(小街)幅25歩(15歩,35歩,50歩)に合っているわけではない。⑤「左祖右社」については,従っているといっていい。⑥「面朝後(后)市」については,宮城の後方(北)と解釈すれば,「後市」となっていない。⑦「市朝一夫」には従っている。総じて,『周礼』「考工記」モデルと関係なさそうに思われる。応地利明は,ア)〈3南北縞帯編成〉,イ)〈「都城正面ファサード=南辺市壁」に開口された3市門の中央縞帯のみへの限定〉という特徴については『周礼』都城モデルに類似しているとするが,そのモデルはあくまで応地モデルである。イ)というが,応地モデルは,門の間隔は均等であるから,必ずしも〈中央縞帯のみへの限定〉ということにはならないだろう。最大の問題は,「北闕」型であることである。既に北魏平城,あるいは曹魏鄴で「北闕」型の形式が見られるが,隋唐長安ほど形式的に整然とした例はない。応地の隋唐長安の形態解釈において最も興味深いのは,「北闕」型の空間構成についての指摘である。すなわち,北闕左右の構成は,鮮卑軍団の軍営組織に由来するという。依拠するのは,杉山正明(2008)のいうテュルク系遊牧集団に共通する「オグス・カガンの軍団編成」である(図Ⅲ-3 25)。中国都城の理念というけれど,北魏平城以降,「北闕」型都城を造営してきたのは遊牧民族である鮮卑拓跋部である。まず,遊牧民の集団編成の原理と都城の空間構成を関係付けるのは極めて自然である。「北闕」型が本来の中国都城であるという村田治郎の主張は否定される。  杉山正明のいう「オグス・カガンの軍事集団」は,ユーラシアにおけるスキタイ・匈奴に始まる遊牧国家の歴史的展開の基礎に関わる重要な空間編成原理である。その基本モデルは,ラシードゥッディーンの『集史』(1310~11)第1部第1章「テュルク・モンゴル諸部族志」の始祖説話(オグズ・カガン伝説)に示される。オグスには,右翼に「日」(キュン)「月」(アイ)「星」(ユルドゥズ),左翼に「天」(キョク,蒼天)「山」(タク)「湖」(デンギズ)という6人の子がいて,6人には,さらに4人ずつの息子がいる。左右にそれぞれ3×4=12,計24の集団を配するのである。匈奴帝国がまさにそうで,君主たる単于が中央部にあって南面し,右に右賢王率いる12長,左に左賢王率いる12長が配される体制「二十四長」である(『史記』)。この左右両翼体制は,匈奴のみならず鮮卑,柔然,突厥,吐番にも共通の組織原理であった。そして,北周の宇文泰が設けた「西魏二十四軍」も,6人の柱国大将軍がそれぞれ4軍を率いるものであった。北魏に先行する代国,そして北魏分裂した西魏・東魏,さらに北斉,北周,隋・唐,いずれも鮮卑拓跋部の国家である。さらに,モンゴル帝国においてもこの左右両翼24軍の体制がとられる。チンギス・カーンを中央に,右翼の3人の息子ジョチ,オゴデイ,チャガタイにはそれぞれ4つの千人隊,左翼の3人の弟カサル,オッチギン,カチウンには,順に1,8,3の千人隊が割り当てられた。左翼の配分は均等ではないが,左右両翼はそれぞれ12の千人隊からなる。そして,女真族が建てた後金,そして大清国の都盛京が実に興味深い。ヌルハチが建てた宮城は大政殿(八角殿)を北に置いて東西に十王殿が並ぶ(図Ⅴ-4-2a)。十王殿は八旗と右翼王,左翼王である。これは軍団編成そのものである。ヌルハチが採用した八旗制は清北京の空間構成原理となる(第Ⅴ章4)。このように,南面する中央と左右両翼の三極体制,十・百・千・万の10進法による軍事・社会組織は,ユーラシア東半に共通の国家システムである。応地利明は,宮城・皇城とその東西の空間構成は,この左右両翼24軍体制を空間化したものだという指摘は,これまでに全くない新説であるが,上にあげた事例に照らせば極めて説得力がある。上に解析したように,左右は,それぞれ3(東西)×4(南北)=12の坊,合わせて24坊からなるのである。杉山正明の図について,宮城,皇城,そして,東西の街坊がまず建設されたことを考え合わせると,「宮闕」と左右両翼の街坊を1つのセットと考えるのは自然である。建設過程が明らかにするように,まず,宮城・皇城と左右両翼部分が設定され,北区域と南区域が分離される。宮城に接して設けられる禁苑を含めて考えると,宮城・皇城は中央に位置するという見方もあるが,「北闕」型,すなわち宮闕区域を北に置くことがまず選び取られている。これは『周礼』都城モデルと決定的に異なる点である。しかし,次に「六街」の配置が設定されていることは,『周礼』「考工記」「匠人営国条」の「傍三門」が意識されていることを示すであろう。そして,金光門と春明門を繋ぐ横大街より南の街区が東西18.3里,南北9.375里であること,すなわち「方九里」2個分であることも,『周礼』と無縁ではないと思われる。南の条坊区域のみについてみれば,環塗を除くと「九経」であり,金光門-春明門の横大街を加えれば「九緯」でもある。「九経九緯」が意識されていることも応地利明が指摘するところである(応地の『周礼』都城モデルでは,すなわち,環塗を含めれば「九経」とはならないが)。長安の設計計画において,応地のいう『周礼』都城モデルの摂取,同化が行われたこと,少なくとも全体の空間分割に当たって,『周礼』都城モデルが念頭に置かれていたことは指摘できるであろう。都城のかたちとコスモロジーとの関係についての議論は残るが,宮城区域の形式(三朝五門制),南面する中央と左右両翼の三極体制の空間化,体系的な土地班給システムに基づく坊墻制,南北中軸線と左右対称の空間構造の確立など,隋唐長安はいくつかの空間構成のシステムを総合化した都城モデルとなるのである。[1] 平岡武夫編(1956)『長安と洛陽・地図』唐代研究のしおり第七,京都大学人文研究所。これには北宋・呂大防「長安城図」(残図)も含まれている。[2] 陝西省文物管理委員会「唐長安城地基初歩探則」(『考古研究』3期,1958年)[3]中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊「唐代長安城考古記略」(『考古』第11期,1963年)[4] 宿白「隋唐長安城和洛陽城」『考古』1978年6[5] 鄧奕,布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,第536号,p163-170,2000年10月。[6] ただこの場合,A,Bの間,BとC,D,Eの間で調整が必要になる。街路幅員はA,Bの間については,100/2+75/2=87.5歩,B,Cの間については,75/2+25/2=50歩といった寸法になる。特に,金光門と春明門をつなぐ横街の幅が50歩というと,南北大街の100歩に比べて狭い(平岡武夫・叶驍軍(1986)は47歩としている。実測図傳熹年(2001)は82歩とする。)からここで南へグリッド全体がずらされたと考えると南北の全長は実測値に近くなる。[7] 上編「第4章 隋唐長安城内的宅舎規模」(王貴祥等(2008))[8] 下編「第3章 日本古代都城条坊制度的演変及興隋唐長安里坊制的初歩比較」(王貴祥等(2008))[9] 下編「第3章 日本古代都城条坊制度的演変及興隋唐長安里坊制的初歩比較」(王貴祥等(2008))[10] 欧陽恬之は,共通に坊墻壁幅を2歩,環塗を10歩とする。また,C,D,E街区(坊)については,十字街の東西街路幅を10歩とする。そして,十字街のその他(A,B,C)の街路幅を14歩とするが,16歩の誤りである。[11] 「第1章 中国古代城市”制里割宅”研究三籤」[12] 4×8=32の宅地(戸主(ヘヌシ))によって「町」が形成される。「町」は方40丈の正方形である。すなわち,1戸主は5丈×10丈の大きさである。さらに4つの「町」によって「保」が,さらに4つの「保」によって「坊」が形成される[13] 徐松は,宮城は東西4里188歩,南北2里85歩,皇城は東西5里17歩,南北3里298歩としている。宮城・皇城の範囲は,5里17歩×6里23歩(1817歩×2123歩)となる。[14] 王貴祥「第5章 隋唐洛陽城内的宅舎規模」((王貴祥等(2008))コメント

funoshujiのblog 2015 traverese16 大興城(隋唐長安)の設計図-中国都城モデル(2)A Plan of Chang'an- A Model of Chinese Capital 大興城(隋唐長安)の設計図-中国都城モデル(2)A Plan of Chang'an- A Modelof Chinese CapitalShuji Funo布野修司 前漢長安城とは異なり,隋大興城は予め全体計画に基づいて建設された。計画に当たっては,全体の規模をどう決め,土地の区画,空間の配分をどのように決定するかが第1に問題となる。長安城については,平岡武夫(1956)の開元・天宝年間の盛唐期を中心とする復元があって定説とされてきた(図1)[1]。田中淡(1989)も,隋唐長安に関する研究成果は,解放後の調査結果も含めて平岡武夫(1956)に集約されているとしたが,ここではその後の復元案も含めて検討を加え,独自の案を示したい。 平岡武夫は,東西6600歩(9702m),南北5575歩(8195.25m)を前提として復元図を示した。1歩=146.9cm=5尺(1尺=29.4cm)という尺度換算をもとにしている。叶驍軍(1986)が平岡武夫の復元図をもとに寸法関係を明らかにしているように,中国でもその復元図は影響力を持ってきた。復元案は,街区(坊)の形状・規模に5種あるとする。東西方向の街区(坊)幅は,650歩,450歩,350歩の3種,南北方向の街区(坊)幅は,400歩,550歩,325歩の3種である。そして,街路幅員については,南北大街は環塗も含めて全て100歩幅,東西街路(街道)については,皇城南は全て47歩幅,宮城・皇城の東西は,横街に繋がる開遠門-安福門・延喜門-通化門の東西大街は100歩幅,他は環塗を含めて60歩幅とする。そして,市については600歩四方,東西の坊との距離すなわち市に接する東西の大街の幅は125歩,南に接する大街の幅は100歩とする。この復元については,東西街路幅が47歩というのがすっきりしない。また,南北街路が全て幅100歩というのも疑問である。さらに,南北325歩というのは,以下にみる『三礼図』の記述にはない。そして実際,その後の発掘調査によると,南北の全長が実際は315歩ほど長く,坊間幅は平岡の想定(47歩)より短い,また,南北街路の幅員の大半は50歩前後である。全長を考えると,皇城南の坊は,南北350歩とした方が寸法的にも合う。徐松撰・愛宕元訳注(1994)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩(一部325歩)×650歩, 350歩(一部325歩)×450歩,350歩(一部325歩)×350歩の5種としている。 陝西省文物管理委員会[2]・中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊[3]は,東西9721m(6617.43歩=33087.1尺),南北8651.7m(5885.51歩=29447.6尺)とする。そして宿白[4]らによって復元図がつくられている(図2)。復元案の中で,各部分の寸法を示しているのが傳熹年(2001)である(図3)。ここでは,この復元図に示される実測値を出発点としたい。 傳熹年(2001)の復元図からは,直ちには明快な街区寸法,街路幅員の体系は窺えないが,注目すべきは,宮城・皇城の左右(東西)の東西幅(B)が等しく(左右対称),また,皇城・宮城の南北幅(B)に等しいこと,さらに,皇城南の街区の南北はこの皇城宮城・宮城の南北幅(B)の1.5倍(3×1/2B)という指摘である。第1に手掛かりとなるのが,宮城の東西幅(A)である。上述のように,『唐両京城坊攷』は,宮城は東西4里(1440歩),南北は2里270歩(990歩)そして,皇城(子城)は東西5里115歩(1915歩),南北3里140歩(1120歩)という。宮城・皇城合わせた区域の東西は1915歩,南北は2210歩となる。実測値は,宮城皇城の東西長さ(A)は内法で2820.3m=1918.6歩である。そして,宮城・皇城合わせた南北長さ(B)は,3335.7m=2269.2歩である。また宮城部分の南北幅は1492.1m=1015.0歩である。因みに,平岡武夫(叶驍軍(1986))は,東西幅を1900歩,南北幅を宮城960歩+皇城幅1220歩(横街300歩含む)=2180歩とする。こうした寸法は,どこからどこまでを測るかが問題である。条里制,条坊制についてみたように(Column1),芯々制(シングル・グリッド)をとるか,内法制(ダブル・グリッド)をとるかで大きく異なる。また,歩を単位とすることは前提であるとしても,実測値(メートル)の歩への換算単位次第で異なる。歩の値も時代や地域によって異なることは予め確認した通りである(第Ⅰ章2-3)。傳熹年(2001)の実測図をもとにした復元図には,街路の幅員と街区(坊)の規模が分けて記されている。すなわち,内法制が前提とされているようにみえる。しかし,その数値にはかなりのバラつきがあり,一定の体系は直ちには見いだせない。傳熹年が見出したのは,上述のように,A,Bという単位である。ということは,設計計画にあたって,まず,大きな区画が単位として設定されていたことを推測させる。そこで宮城の寸法を見ると,南北幅は960歩~1015.0歩,東西幅は1900歩~1950歩である。1,000歩×2000歩が予め設定されたのではないかと推定される。両端に接する南北大街の幅を100歩とすれば,芯々で2000歩という寸法となるからである。そして,宮城・皇城の左右の街区の東西幅を見ると,傳熹年(2001)の実測図に基づけば,3334.2~3458.5m(2268.2~2352.7歩)(2268.8歩(3335.7m=B)である。3分割されることから,750歩×3=2250歩という設計寸法が考えられる。環塗と城壁部分を50歩として加えると2300歩となる。東西全長は6600歩で実測値に合致する。そもそも傳熹年のB=2268.8歩は,宮城・皇城の南北長さである。『唐両京城坊攷』は2210歩(宮城:南北2里270歩(990歩)+皇城:3里140歩(1220歩))というから,これも2250歩が設定寸法であることが想定される。すなわち,傳熹年(2001)が示唆するように,宮城・皇城区域の左右街区の全体については2250歩×2250歩という寸法が設定されていたと思われる。宮城と皇城の間に横街があり,その幅を250歩とすれば(叶驍軍(1986)は300歩としている),宮城,皇城とも南北長さは1,000歩となるからである。皇城南の街区について見ると,傳熹年(2001)の想定によれば,南北の長さは3375歩(1.5B)である。南北は9分割されるから,均等に分けるとすると,芯々375歩(750/2)の坊に区分される。 すなわち,宇文愷は,基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系を設定したことが明らかになる(図Ⅲ-3 4)。ただ問題がある。南北の全長が実測値と合わないのである。以上の単純グリッドだと,南北長さは2250歩+3375歩=5625歩となるが,南北の環塗・城壁分50歩×2=100歩加えても,実測値5889.52歩より164.52歩短いのである。この差は無視しえない。そこで第2の手掛かりとなるのが,建設プロセスである。妹尾達彦(2001)によれば,最初に ①南北の中軸線(朱雀門街)と宮城の位置を決め, ②宮城を囲む禁苑と皇城をつくる,合わせて ③宮城を基点に,外郭城に6つの主要道路,六街をつくる,そして, ④六街を基準に,六街を含む東西12,南北9の街路をつくる,そして最後に, ⑤外郭城の城壁をつくるというのが建設プロセスである。もちろん,建設プロセスであって,予め全体計画はなされていたことは前提である。注目すべきは③である。六街とは,中軸線となる朱雀門街と宮城東西に接する南北大街,そして東西の主要門を繋ぐ3つの東西大街である。城外へ通ずる街路と門の位置はまず設定されたと考えられるのである。すなわち,皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街),そして,延平門-延興門を結ぶ東西大街が予め設定されることで,皇城南の街区は北の四街と南の五街が分けて設計されたことが考えられる。すなわち,そこでも基準線が南にずらされた可能性がある。以下に検討するが,六街の幅員を100歩とすると,75歩ほどずらして設定された可能性がある。さらに,実測図を見て気がつくのは,最南端の街区(坊)の南北長さのみが長いことである。南城壁の建設に関わって拡張された可能性が考えられる。以上,確認したのは,Ⅰ 基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されている,すなわち,Ⅱ 街区(坊)には,芯々で500歩×750歩(A),625歩×750歩(B),375歩×750歩(C), 375歩×550歩(D),375歩×450歩(E)の5種がある。すなわち,長安城は宮城,皇城とA~Eの街区(坊群)および東西市からなる,そして,Ⅲ 南北は大きく2ないし3つの区域に分けて計画されている,ことである。 さて,以上の基準グリッドと領域区分を確認した上で,街路体系と街路幅員について考察したい。街路体系によって,街区(坊)の形状と規模が規定される。これまでの定説によれば,街区(坊)の形状と規模には5種類ある。これは隋『三礼図』に「朱雀街第一坊東西三百五十歩。第二坊,東西四百五十歩。次東三坊,東西各六百五十歩。朱雀街西准此。皇城之南九坊,南北各三百五十歩。皇城左右四坊,従南第一,第二坊,南北各五百五十歩。第三坊,第四坊,南北各四百歩。両市各方六百歩,四面街各広百歩。」とあることを根拠にしており,復元の前提となっている。 この5種類の街区(坊)を前提とし,さらに傳熹年(2001)の復元図の実測値を基にする復元案として王暉(「日本古代都城城坊制度的演変及与隋唐長安里坊制的初歩比較」王貴祥(2008))の復元案(図Ⅲ-3 5 a)がある。王暉案は,平岡同様,南北街路幅は全て100歩とするが,皇城南街区の南北幅は350歩とし,坊間街路幅を40歩とする。すなわち,東西街路幅の47歩を不自然とみて,街路幅員として40歩,60歩,100歩という完数(ラウンドナンバー)を想定する。しかし,この復元案では南北の全長は5790歩となり,実測値に100歩ほど足りない。そこで,王暉は,南北を実測値5885歩に合わせ,実測図に合わせた修正を試みている(図4)。王暉論文は,参考文献の第1に,『アジア都市建築史』(布野修司編+アジア都市建築研究会(2003),布野修司編(2009)『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳)を挙げ,「乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察」[5]の図を引用している。寸法体系への関心は共有するが,設計計画案を実測図に合わせるために修整する意味は必ずしもない。王暉の修整は,今後の様々な遺構の発見に備えようとするものと理解したい。ここで問題にしているのは設計寸法であり,その体系である。実際には,施工精度,測量精度の問題でずれが生じるのは当然である。  王暉の復元案を前提として,東西坊間街路幅を40歩でなく50歩とすれば,全長は90歩増えて5880歩となり,かなりすっきりとした体系になる。皇城・宮城の東西についても坊間街路幅は50歩として復元案を示すことができるから,坊間街路の幅員は,南北街路については全て100歩,東西街路は(東西のそれぞれ三門を繋ぐ三街(幅100歩)を除いて)全て50歩という案になる(王暉案は,六街の1つである延平門-延興門を結ぶ東西大街の幅は100歩としていない)。 隋唐長安城の通説とされている復元案は極めて単純な概念的寸法体系によって示すことができる(図5)。Ⅳ 通説とされている復元案は,南北街路幅は100歩,東西街路幅は六街(100歩)を除いて50歩であり,街区(坊)は,400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種(『三礼図』)からなる。しかし,問題は,この通説の寸法と実測値が大きくずれていることである。街路幅員には大きなばらつきがある。傳熹年(2001)の実測図によれば,南北街路幅が全て100歩ということは想定できない。六街と他の街路との間に区別を設定したと考えられるし,実際,大街,小街のヒエラルキーがある。傳熹年(2001)の実測図によれば,宮城・皇城に接する東西横街,朱雀門街を除けば,坊間の南北街路幅は42~68m(28.6~46.3歩),東西街路幅は39~55m(26.5~37.4歩)である。小街は大街の半分程度である。また,坊の大きさもまちまちで,以上の前提(Ⅳ)より総じて大きい。宮城の東西は,400歩×650歩とされるが,483歩×694歩~765歩,皇城の東西は,550歩×650歩とされるが,508歩~561歩×694歩~765歩である。さらに,皇城南,東西の街区は350歩×650歩とされるが,340歩~391歩×694歩~765歩,皇城直南の街区は,350歩×450歩,350歩×350歩とされるが,340歩~391歩×465歩~476歩,340歩~391歩×380歩~382歩である。Ⅴ 通説(Ⅳ)は,否定される。基準グリットとして1,000歩,2000歩,500歩,750歩といった1,000歩を2分割,4分割する極めて単純な寸法体系が設定されている(Ⅰ)と考えるのは,実測値にばらつきがあるからである。そこで,実測値に近い街路体系,街路幅員について試案を示すと以下のようになる。Ⅵ 長安城の街路体系 試案①六街の幅員を100歩とする。そして,②環塗と城壁を合わせて50歩とする。と,宮城・皇城の左右の街区の東西幅は2200歩(2250歩-50歩)となる。各坊の東西幅を700歩とすれば,南北小街の幅員は50歩となる(700歩+50歩+700歩+50歩+700歩)。また,宮城皇城の南北幅は,450歩+50歩+450歩+100歩+550歩+50歩+550歩+50歩=2250歩に,すっきり分割できる。すなわち,③宮城の東西の坊は450歩×700歩,皇城の東西の坊は550歩×700歩とする。坊間街路幅は東西,南北とも50歩とする。南北街路(小街)幅は,単純に朱雀門街など六街の半分という設定が行われたのではないかと考えられる。そこで,④南北街路(小街)幅は全て50歩とする。皇城直南の東西幅は,100歩+475歩+50歩+375歩+100歩+375歩+50歩+475歩+100歩に分割される。皇城直南の坊の南北幅については,以下の坊の分割に関わる議論が必要であるが,通説に従って350歩としよう。すなわち,⑤皇城南の東西街路幅を25歩とする。すなわち,⑥皇城直南の坊は,350歩×475歩,350歩×375歩とする。⑦皇城南東西の坊は,350歩×700歩とする。問題は,基準グリッドと六街との接続をどう考えるかである。すなわち,皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街),そして延平門-延興門を結ぶ東西大街と基準グリッドをどう重ねるか,という問題が残る。100歩の幅を厳密に設定すると,基準線からのずれを,それぞれ,α=37.5歩,β=75歩とすればいい。なお,南北全長の実測値とのずれは,南端に残る(γ=97.5歩+50歩)。 各街区(坊)の構成を考えよう。出発点とするのは基準グリッド(Ⅰ)である。皇城南左右の街区の各坊は,最南端の一列を除いて,基準グリッドとして設定した芯々375歩×750歩のグリッドに収まっている。坊間の南北街路を30歩,坊間の東西街路幅を15歩とすれば,丁度,各街区は内法で南北1里(360歩)×東西2里(720歩)となる。街区規模は単純におよそ1里(360歩)×東西2里(720歩)と設定した可能性が高いのではないか。後述のように,同じ宇文愷の設計になる洛陽の場合,1里(360歩)×1里(360歩)(300歩×300歩)のグリッドが採用されている。  基準グリッド(Ⅰ)を前提として,通説の400歩×650歩,550歩×650歩,350歩×650歩,350歩×450歩,350歩×350歩という5種の坊は,坊間街路幅の設定(100歩,75歩,25歩)によって導き出される。南北街路は全て100歩幅,東西幅は,Aについては100歩幅,Bについては75歩幅,C,D,Eについては25歩幅とすればいい(図Ⅲ-3 8)。こうした指摘はこれまでないが,数字の体系として一貫性のある提案となる[6]。しかし,基本は面積の単位である。街区(坊)の分割を考える場合,1里=360歩を長さの単位とするのは極めて自然である。250歩×250歩というグリッドの単位も,1畝=240歩×1歩が意識されていると考えていい。周回に坊墻と環塗合わせて5歩の幅をとれば240歩四方となるのである。Ⅶ 面積配分の単位となるのは,方1里(360歩×360歩),1畝=240平方歩である。そして,坊の分割単位,構成単位がまず問題である。 史資料から各坊は十字街によって,あるいは東西横街によって分割されることが明らかにされている。韋述『両京新記』の建物の記述をもとにその区画を詳細に検討した妹尾達彦によれば,A,B,Cは4×4=16分割,D,Eは4×3=12分割される。王貴祥[7]も同様に,朱雀大街以東が中心であるが,『両京新記』『長安志』『唐両京城坊考』の記載をもとに街区分割のパターンを調べあげている。Ⅷ 宮城皇城の東西の坊は,大小の十字街によって,1/4,1/16に分割される,また,皇城直南の坊は,横街によって,1/2,さらに1/6に分割される。  王暉[8]は,350歩×650歩,そして350歩×450歩という坊を,それぞれ4×4=16分割(A,B,C), 4×3=12分割(D,E)のモデル街区(坊)として,宅地分割のパターンを示している。基本的には24歩×10歩=1畝を単位として,大十字街の幅を10歩,小十字街の幅を4歩,宅地列間の路幅を3歩とする(図Ⅲ-3 9)。王貴祥等(2008)は,一般的に大十字街の幅員を全て30歩とするが,上での大街(六街),小街の幅員の検討からみても広すぎる。実際,宮城西,北城壁に接する安定坊の遺址の図面を測ると,小十字街の東西街の幅は4.95歩~7.05歩,南北街幅は3.28歩である。王暉の復元は妥当と思われる。そして,均田制に関連して第Ⅰ章(2-1)で触れたが,宅地の班給は身分に応じて,九品以下は1畝,九品2畝,八品2.5畝,七品3.5畝,六品4畝,従五品5畝,五品8畝・・というように畝を単位として行われたと考えられるから,畝を単位とした分割パターンを想定するのは当然である。ただ,王暉の場合,24歩×10歩=1畝の宅地が3列に並んで坊内の単位区画を構成していたとするにとどまる。  それに対して,欧陽恬之[9]は,専ら尺度,寸法関係を手掛かりとして,全ての坊の類型について,分割パターンを検討している(図Ⅲ-3-10)。坊墻壁幅を2歩,環塗を10歩,十字街の幅員は10歩(もしくは16歩[10]),小十字街の幅員は5歩とする一貫性のあるモデルの提示である。第1に,50歩×50歩を基本単位とするわかりやすい根拠がある。24歩×10歩=1畝の土地を東西に5ずつ南北に並べ,間に2歩の路地をとれば,10戸の土地の単位となるのである(図Ⅲ-3-11)。16歩という街路幅の数字にはややすっきりしないが,欧陽恬之の復元は,王暉の想定とともに実測値に即しているといっていい。そして,注目すべきは,以下に見る平康坊について340歩×695歩という復元案を示していることである(図Ⅲ-310f)。すなわち,350歩×650歩という単位は必ずしも実施されていないことを認めているのである。 唐代の坊肆,住宅などの遺址として確認されているのは,永嵩坊道路遺址,平康坊滲井遺址,長楽坊窯址(碑林区),普寧坊窯址(蓬湖区),崇化坊建築遺址(雁塔区)である。もちろん,その他に,多くの寺観,園林の遺址があり,坊の復元の根拠とされる。朱雀門街以東の全ての坊を調べ上げた先述の王貴祥は,唐長安里坊内部分住宅基址の規模を列挙している。どう計測したのかが不明で,1畝以下の宅地も多く,必ずしも明快な面積単位は見出せないが,上記のように,坊が大小の十字街によって,1/4,1/16に分割されること(また,横街によって,1/2,さらに1/6に分割されること)は前提となる。  賀従容は,平康坊を対象として,その構成を検討している[11](王貴祥等(2008))。『両京新記』『長安志』『唐両京城坊考』『隋唐両京坊里譜』をもとに710年以前,710~740年間,750年~860年に分けて,平康坊に存在した寺,宅院をまず確認し,各宅院の面積を推定する。そして,平康坊の分割パターンを2つ示した上で推測図を示している。賀従容が念頭に置くのは平安京の四行八門[12]制である。すなわち,2つの分割パターンは,ともに4×8=32区画を基本にしている。賀従容が続いて取り上げる興道坊の復元は,まさに四行八門の分割パターンそのものである。ただ,以下に続いてみるが,賀従容は,結論として,王暉,欧陽恬之の提起する24歩×10歩=1畝が3列に並ぶ街区(24歩×10歩=1畝の宅地を15×3=45配置する)案に従うようである。賀従容(2012)では,平康坊とともに宣陽坊をとりあげて,その街区構成を示している。賀従容(2012)は,また,各宅地の空間構成についても復元案を示している。出土した宅地模型がその大きな根拠となる。さて,以上をもとに,坊の分割パターンのモデルを提示したい。Ⅸ 方一里坊モデル  ①240歩=1畝制は実にフレキシブルな分割を可能にする。1畝の土地の形状の全てを検討する必要はないだろう。住居(四合院)の空間構成(間口)を考えれば,40歩×6歩,30歩×8歩,24歩×10歩,20歩×12歩,16歩×15歩といった単位を考えればいい。②方一里,360歩×360歩の正方形の坊を,坊墻壁を含めた環塗(幅10歩)で取り囲むとすると,340歩×340歩が区分される。それを幅10歩の十字街で4分割し,さらに幅5歩の小十字街で4分割すると,80歩×80歩が街区の基本単位となる(坊の1/16)。すなわち,80歩×80歩を基本単位としたというのが,本書が提起する新たな説である。 そして考えられるのは,X,Y,2案である(図Ⅲ-3 15xy)。③Xは,1/16坊=25畝(5×5),1/4坊=100畝,坊=400畝という構成になり,Yは,1/16坊=24畝(3×8),1/4坊=96畝,坊=384畝という構成になる。中国の研究者たちは,Y説とするが,宇文愷の設計図はXであったと考える。1/4坊=100畝という設定は極めて単純である。Ⅹ 坊の類型モデル  Xを基本として,坊の類型毎に分割パターンを示しておこう(図Ⅲ-3 16ab)皇城南,東西の坊は360歩×720歩でいいであろう。皇城直南は,360歩×360歩と360歩×420歩とすればいい。 以上で,大興城の設計図を完成し終えた。同じ,宇文愷の設計になる東京城(洛陽)の空間構成をみた上で,隋唐長安の都城理念についてまとめたい。  徐松『唐両京城坊攷』は,続いて「東京」について記述する(「巻5東京」)。東京は,東都ともいう。煬帝は即位(604)後すぐさま洛陽へ行幸,新都建設を表明,直ちに建設に着手するとともに,翌大業元(605)年,天下の富商・大賈数万戸を東京に移させている。宇文愷は,東都の造営に営都副官として関わり,乾陽殿,顕仁殿など主要な宮殿の設計をおこなう。この隋唐洛陽については,長安に比べると知られることが少ない。基本的に,宇文愷は,大興城と同じ理念に基づいて設計したとされるが,坊の規模は小さい。「東京」の場合,地形,河川の制約を大きく受けており,軸線もやや傾いている。東街(左京)のみしか区画されていないし,宮城や皇城の構成はほぼ同じといっていいが,東城の存在などかなり異なっている。西京についても徐松『唐両京城坊攷』に拠って,まずその空間構成を確認しよう。宮城・皇城については,発掘作業が進展し,詳細な復元が試みられている(図Ⅲ-3 17)。また,道観,仏寺,宅園などの分布も明らかにされてきている。 宮城は隋代には紫微城といい,貞観6(605)年に洛陽宮と称し,武則天の光宅元(684)年に,東都を神都と改称した際に,太初宮と改称している。紫微とは,天帝の居所である天空の中心とされた北斗七星の北に位置する星座(小熊座を主とする星座群)をいう。徐松によれば,洛陽の皇城宮城は以下のような構成であった。①「東西四里一百八十八歩,南北二里八十五歩,城周一三里二百四十一歩,城高四城八尺」で,「以象北辰藩衛」と徐松はいう。すなわち,北極星をとり囲む藩垣として衛護するかたちを象ったものという。規模は,長安と比べると東西はやや長く,南北はやや短いがほぼ同じ規模である。②宮城内に東南隅の東宮と西北隅の皇子,公主の居所の二隔城あり,北側に円壁城,曜儀城の二隔城が接している。東宮の配置は長安と同じであるが,他の隔城の存在,特に北面に隔城が配されるのは長安とは異なる。神都苑(禁苑)は宮城,皇城の西に位置し,北辺に禁苑が存在しないのは長安とのかなり大きな違いである。③宮城の南面に4門,東面に1門,西面に2門,北面に2門開かれている。正南門は応天門であり,北門の玄武門,皇城南門の瑞門,さらに外郭城南門の定鼎門が南北中軸線上に並ぶ。④宮城の正殿は,応天門の北に配置される含元殿で,北へ貞観殿,徽猷殿が順次南北に配置される。徽猷殿の北に陶光園があり,園の北に玄武門が位置する。含元殿が大明宮と同様外朝としての役割を果たしたのは言うまでもないが,皇帝が日常の朝見を行ったのは貞観殿ではなく,含元殿の西に位置した宣政殿であり,その北に観文殿,さらに同心閣が配置される。他の宮殿の配置は省略するが,外朝,中朝,内朝の三朝構成も長安とは異なっていることが徐松の記述から知られる。 ⑤隋代には大微城,また,南城,宝城といった。大微垣は,紫微の南にある十星からなる。「東西五里十七歩,南北三里二百九十八,城高三丈七尺」で,「其城曲折,以象南宮垣」と徐松はいう。すなわち,皇城が曲がっているのは,南宮垣を象ったという。南宮垣は,大微垣のさらに南の星座をいう。規模は,長安とほぼ同規模である。⑥南に3門,東に1門,西に2門,宮城との間には横街が東西に走って,日華門と月下門を結んでいる。皇城内は,南北四街(五街),東西四街が走り,全体は3×4=12街区からなる。⑦官衙は,東朝堂,西朝堂を中心として左右に配置される。太廟,中宗廟は東南隅の街区,大社は北東隅の街区に配されている。⑧東城は,「東面四里一百九十七歩,南北面各一里二百三十歩,西属宮城,其南屈一百九十八歩,属宮城之東南偶。高三丈五尺」という。東西幅は1里230歩で,南北は宮城の北辺から皇城の半ばまで,皇城部分は東に飛び出す形になっている。⑨上陽宮は,上元年間(674~76)に晩年の高宗のために造営された離宮である。禁苑の東,皇城の西南隅に接して建てられており,南側は洛水を臨み,西側を穀水が流れる。正殿は観風殿で,北に化城殿,さらに仙居殿が並んでいた。⑩神都苑は,隋の会通苑を継承し,上林苑ともいう。北は邙山を背にし,南は非山に及ぶ「周一百二十六里,東面十七里,南面三十九里」の広大な苑で,苑内で洛水と穀水が合流している。 東京城は,大業元年に築かれ羅郭城といった。唐の長寿2(693)年に李昭徳が増築し,金城と改称した。 ⑪「前直伊闕,后倚邙山,東出瀍水之東,西出澗水之西,洛水貫都,有河漢之象焉」という。すなわち,南は伊水が門闕になる地,北は邙山を背にし,洛水が都城内を貫通していて,銀河を象ったという。 ⑫城周52里,南面に3門,東面に3門,北面に2門が開かれている。「城内縦横各十街,凡坊一百十三,市三」,すなわち,城内には縦横各10街が走っており,坊数は約113,市は3つ(北市,南市,西市)ある。「当皇城瑞門之南,渡天津橋,至定鼎門,南北大街曰定鼎門街」,すなわち,南北中心軸線となるのは定鼎門街である。 徐松は,続いて各坊について順次記述していく。そして,最後に,洛渠,通済渠,通津渠,運渠,漕渠,穀渠,瀍渠,洩城渠,写口渠について,それぞれどの坊区を流れるかについて記述する。 史資料から概略以上のように知られる隋唐東都,洛陽については,実測図,中国科学院考古所洛陽隊「隋唐東都城址的勘査和発掘」『考古』1961年3期)に基づいて復元図が示されている。この復元図には附図があり,各坊の東西南北の長さも表の形で示されている。 ここでも,傳熹年(2001)の推定が最初の手掛かりになる。すなわち,一定の基準寸法,基準グリッドが用いられたと考えるのは自然である。傳熹年は,長安については,宮城・皇城の東西南北を基準と考えたのであるが,洛陽については,宮城の大内部分の東西幅1030m(A),南北幅1052m(B)が基準寸法で,皇城・宮城の東西南北(2080m×2065m)の,それぞれ約2分の1となっているとする(図Ⅲ-3 18)。長安と同様,1歩=1.47mで換算すれば,東西(A)700.7歩,南北(B)715.6歩となるが,実測値2080m×2065mは,1415.0歩×1404.8歩で,その2分の1は,それぞれ,707.5歩,702.4歩である。測定点が不明ではあるが[13],以上から,700歩が基準単位として用いられたのではないかと推定される。これを念頭に,各坊の規模を見ると,まず,洛河以南の坊の東西は,定鼎門から東へ470m(319.7歩),500m(340.1歩),515m(350.3歩),525m(357.1歩),505m(343.5歩),515m,525m,520m(353.7m),500m,平均508.3m(345.8歩)である。南北は,南から第6坊まで,520m,500~530m,505~530m,500m,470~525m,480m(1005m南市),480m(217m)である。すなわち,条坊は,芯々700歩の基準グリッドを2×2=4分割するかたち,すなわち,東西,南北が350歩程度の正方形が基本単位になっていることがわかる。東西南北の長さの違いは,大路,小路の幅の違いによる。 王貴祥は,隋唐洛陽の坊は方300歩として,白居易宅など城内の住宅遺址などの規模を基に宅舎の配置を2種復元している(図Ⅲ-3 19abc)[14]。隋文帝の度量衡統一の前後の問題となるが,1里=300歩制から1里=360歩制に切換ったとすれば,洛河以南については,芯々1里(360歩)の単純グリッドが基準とされていたと考えていいのではないか。この分割モデルは,長安の方1里(360歩×360歩)で示される(図Ⅲ-3-18)。長安と比べれば坊は小さい。一部には,さらに「方一里」を東西あるいは南北に2分する坊がある。西市は1坊分,南市は2坊分が当てられている。洛水以北については,以南とは異なる。北辺が斜めとなっており,安喜門の西と東も異なっている。安喜門の西は,3×4の単純グリッドをしているが,北辺を除くと坊の規模は,東西580m(394.6歩)×南北440~455m(299.3~309.5歩)である。300歩×400歩のグリッドが想定されていたと考えられる。安喜門の東は,大きく分けると3種のグリッドからなる。洛河北岸沿いの2坊は,650m(442.1歩)×455m(309.5歩)であり,中央の坊は470~500m×440~515m,左右の坊は,360~400m×440~545mと一定しない。すなわち,坊の形状から見ると,宮城皇城と洛河の南,洛河の北・安喜門西と東は,別の規格によって計画されたことが明らかになる。 さて,以上のように,隋唐長安洛陽の設計図,その寸法関係は明らかにできた。問題は,配置の原理であり,『周礼』「考工記」「匠人営国」条との関係である。既に確認したように,全体を108坊に区画したのは,中国全土を意味する9州と1年12月,9×12から得られる数であるとか,南北13坊が配されるのは,1年12月と閏月を加えた13であるといった説には必ずしも説得力はない。確認するまでもないかもしれないけれど,『周礼』「考工記」「匠人営国」条の都城モデルにそのまま当てはまるわけではない。①「方九里」については,「方」(正方形)ではなく,東西が長く,規模もほぼ倍(東西18.3里,南北15.5里)である。②「傍三門」については,ほぼ従っていると見ることができる。が,北辺の門は七門ある。そして,東西南辺の門の配置は等間隔ではない。③「国中九経九緯」については,徐松『唐両京城坊攻』の記述に従えば,10×13グリッドからなるから,環塗を含めなければ,9経×12緯,含めれば,10経×14緯となるから,従っているとは言えない。④「経塗九軌」については,上の検討に基づく南北街路(小街)幅50歩,東西街路(小街)幅25歩(15歩,35歩,50歩)に合っているわけではない。⑤「左祖右社」については,従っているといっていい。⑥「面朝後(后)市」については,宮城の後方(北)と解釈すれば,「後市」となっていない。⑦「市朝一夫」には従っている。総じて,『周礼』「考工記」モデルと関係なさそうに思われる。応地利明は,ア)〈3南北縞帯編成〉,イ)〈「都城正面ファサード=南辺市壁」に開口された3市門の中央縞帯のみへの限定〉という特徴については『周礼』都城モデルに類似しているとするが,そのモデルはあくまで応地モデルである。イ)というが,応地モデルは,門の間隔は均等であるから,必ずしも〈中央縞帯のみへの限定〉ということにはならないだろう。最大の問題は,「北闕」型であることである。既に北魏平城,あるいは曹魏鄴で「北闕」型の形式が見られるが,隋唐長安ほど形式的に整然とした例はない。応地の隋唐長安の形態解釈において最も興味深いのは,「北闕」型の空間構成についての指摘である。すなわち,北闕左右の構成は,鮮卑軍団の軍営組織に由来するという。依拠するのは,杉山正明(2008)のいうテュルク系遊牧集団に共通する「オグス・カガンの軍団編成」である(図Ⅲ-3 25)。中国都城の理念というけれど,北魏平城以降,「北闕」型都城を造営してきたのは遊牧民族である鮮卑拓跋部である。まず,遊牧民の集団編成の原理と都城の空間構成を関係付けるのは極めて自然である。「北闕」型が本来の中国都城であるという村田治郎の主張は否定される。  杉山正明のいう「オグス・カガンの軍事集団」は,ユーラシアにおけるスキタイ・匈奴に始まる遊牧国家の歴史的展開の基礎に関わる重要な空間編成原理である。その基本モデルは,ラシードゥッディーンの『集史』(1310~11)第1部第1章「テュルク・モンゴル諸部族志」の始祖説話(オグズ・カガン伝説)に示される。オグスには,右翼に「日」(キュン)「月」(アイ)「星」(ユルドゥズ),左翼に「天」(キョク,蒼天)「山」(タク)「湖」(デンギズ)という6人の子がいて,6人には,さらに4人ずつの息子がいる。左右にそれぞれ3×4=12,計24の集団を配するのである。匈奴帝国がまさにそうで,君主たる単于が中央部にあって南面し,右に右賢王率いる12長,左に左賢王率いる12長が配される体制「二十四長」である(『史記』)。この左右両翼体制は,匈奴のみならず鮮卑,柔然,突厥,吐番にも共通の組織原理であった。そして,北周の宇文泰が設けた「西魏二十四軍」も,6人の柱国大将軍がそれぞれ4軍を率いるものであった。北魏に先行する代国,そして北魏分裂した西魏・東魏,さらに北斉,北周,隋・唐,いずれも鮮卑拓跋部の国家である。さらに,モンゴル帝国においてもこの左右両翼24軍の体制がとられる。チンギス・カーンを中央に,右翼の3人の息子ジョチ,オゴデイ,チャガタイにはそれぞれ4つの千人隊,左翼の3人の弟カサル,オッチギン,カチウンには,順に1,8,3の千人隊が割り当てられた。左翼の配分は均等ではないが,左右両翼はそれぞれ12の千人隊からなる。そして,女真族が建てた後金,そして大清国の都盛京が実に興味深い。ヌルハチが建てた宮城は大政殿(八角殿)を北に置いて東西に十王殿が並ぶ(図Ⅴ-4-2a)。十王殿は八旗と右翼王,左翼王である。これは軍団編成そのものである。ヌルハチが採用した八旗制は清北京の空間構成原理となる(第Ⅴ章4)。このように,南面する中央と左右両翼の三極体制,十・百・千・万の10進法による軍事・社会組織は,ユーラシア東半に共通の国家システムである。応地利明は,宮城・皇城とその東西の空間構成は,この左右両翼24軍体制を空間化したものだという指摘は,これまでに全くない新説であるが,上にあげた事例に照らせば極めて説得力がある。上に解析したように,左右は,それぞれ3(東西)×4(南北)=12の坊,合わせて24坊からなるのである。杉山正明の図について,宮城,皇城,そして,東西の街坊がまず建設されたことを考え合わせると,「宮闕」と左右両翼の街坊を1つのセットと考えるのは自然である。建設過程が明らかにするように,まず,宮城・皇城と左右両翼部分が設定され,北区域と南区域が分離される。宮城に接して設けられる禁苑を含めて考えると,宮城・皇城は中央に位置するという見方もあるが,「北闕」型,すなわち宮闕区域を北に置くことがまず選び取られている。これは『周礼』都城モデルと決定的に異なる点である。しかし,次に「六街」の配置が設定されていることは,『周礼』「考工記」「匠人営国条」の「傍三門」が意識されていることを示すであろう。そして,金光門と春明門を繋ぐ横大街より南の街区が東西18.3里,南北9.375里であること,すなわち「方九里」2個分であることも,『周礼』と無縁ではないと思われる。南の条坊区域のみについてみれば,環塗を除くと「九経」であり,金光門-春明門の横大街を加えれば「九緯」でもある。「九経九緯」が意識されていることも応地利明が指摘するところである(応地の『周礼』都城モデルでは,すなわち,環塗を含めれば「九経」とはならないが)。長安の設計計画において,応地のいう『周礼』都城モデルの摂取,同化が行われたこと,少なくとも全体の空間分割に当たって,『周礼』都城モデルが念頭に置かれていたことは指摘できるであろう。都城のかたちとコスモロジーとの関係についての議論は残るが,宮城区域の形式(三朝五門制),南面する中央と左右両翼の三極体制の空間化,体系的な土地班給システムに基づく坊墻制,南北中軸線と左右対称の空間構造の確立など,隋唐長安はいくつかの空間構成のシステムを総合化した都城モデルとなるのである。[1] 平岡武夫編(1956)『長安と洛陽・地図』唐代研究のしおり第七,京都大学人文研究所。これには北宋・呂大防「長安城図」(残図)も含まれている。[2] 陝西省文物管理委員会「唐長安城地基初歩探則」(『考古研究』3期,1958年)[3]中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊「唐代長安城考古記略」(『考古』第11期,1963年)[4] 宿白「隋唐長安城和洛陽城」『考古』1978年6[5] 鄧奕,布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,第536号,p163-170,2000年10月。[6] ただこの場合,A,Bの間,BとC,D,Eの間で調整が必要になる。街路幅員はA,Bの間については,100/2+75/2=87.5歩,B,Cの間については,75/2+25/2=50歩といった寸法になる。特に,金光門と春明門をつなぐ横街の幅が50歩というと,南北大街の100歩に比べて狭い(平岡武夫・叶驍軍(1986)は47歩としている。実測図傳熹年(2001)は82歩とする。)からここで南へグリッド全体がずらされたと考えると南北の全長は実測値に近くなる。[7] 上編「第4章 隋唐長安城内的宅舎規模」(王貴祥等(2008))[8] 下編「第3章 日本古代都城条坊制度的演変及興隋唐長安里坊制的初歩比較」(王貴祥等(2008))[9] 下編「第3章 日本古代都城条坊制度的演変及興隋唐長安里坊制的初歩比較」(王貴祥等(2008))[10] 欧陽恬之は,共通に坊墻壁幅を2歩,環塗を10歩とする。また,C,D,E街区(坊)については,十字街の東西街路幅を10歩とする。そして,十字街のその他(A,B,C)の街路幅を14歩とするが,16歩の誤りである。[11] 「第1章 中国古代城市”制里割宅”研究三籤」[12] 4×8=32の宅地(戸主(ヘヌシ))によって「町」が形成される。「町」は方40丈の正方形である。すなわち,1戸主は5丈×10丈の大きさである。さらに4つの「町」によって「保」が,さらに4つの「保」によって「坊」が形成される[13] 徐松は,宮城は東西4里188歩,南北2里85歩,皇城は東西5里17歩,南北3里298歩としている。宮城・皇城の範囲は,5里17歩×6里23歩(1817歩×2123歩)となる。[14] 王貴祥「第5章 隋唐洛陽城内的宅舎規模」((王貴祥等(2008))コメント

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