Images of ウクライナの宗教
ウクライナは人口4,800万人で旧ソ連ではロシアに次ぐ、面積は日本の2倍弱の60万m2ウクライナ人が8割でロシア人は2割未満。大統領制の共和国である。ロシアとは歴史的にも文化的にも、また言語も似て異なっており、現在も微妙な関係が続いている。そしてウクライナといえば美男美女の国、私が訪れた日にも至る所で野外での結婚式に遭遇したが、ほとんど例外はなかった。(写真1)
首都キエフは人口約270万人を擁する大都市である。キエフは5世紀後半に町が形成され、882年にノヴゴロドのイーゴリを擁する一派が、 キエフを征服し、スカンジナヴィアとビザンチンを結ぶ大水路の支配権を握った。彼らがキエフを中心に建てたキエフ・ルーシは東スラブ最初の統一国家となった。
988年にはウラジーミル聖公がギリシア正教を国教とし、キエフはキリスト教文化の一大中心地に発展した。11世紀のヤロスラフ賢公の時代に最盛期を迎えるが、その後公位をめぐる内紛が続き、1169年に大公位をウラジーミル公国に奪われて崩壊する。政治・宗教の中心地は新興のモスクワに移り、1240年のモンゴル来襲で徹底的な破壊を受けて、キエフは「母たる町」の役割を終えた。
その後ソ連からのウクライナ独立から十余年を過ぎた2004年、大統領選挙での不正に抗議する民衆がキエフの通りを埋め尽くした、いわゆる「オレンジ革命」は記憶に新しい。その後誕生したユーシェンコ大統領は西側よりの政策を進め、ロシアとの関係に微妙な影響が出ている。同時に自由化が進んでおり、90日以内の観光訪問の場合は自由に訪れることができるようになった。日本では知られざる東ヨーロッパの大国である。
最近の話題としては、ヨーロッパ諸国にとってロシアからウクライナ経由で送られる天然ガスが生命線の一つであるが、石油、天然ガスの価格、供給量についてロシアの強固姿勢が目立ち、安定供給について協議が続いている。また西側寄りのユ-シェンコ大統領と親ロシアのティモシェンコ女性首相との路線の違いが取り沙汰されており、次期大統領選が注目されている。
キエフへはモスクワから夜行列車で約10時間(写真2、3)、サンクトペテルブルクからも夜行列車はあるが、移動だけで1日がかりとなる。もちろんボリスビリ国際空港に多数発着便がある。
キエフといえば思い出されるのがムソルグスキー作曲組曲「展覧会の絵」の終曲「キエフの大門」である。原曲はピアノ独奏曲であるが、フランス人作曲家ラヴェルが編曲した壮麗なオーケストラ版が日本でもよく演奏されている。豪快なこの終曲から他を圧する巨大な大門をイメージしてしまうが、実は「キエフの大門」というものはキエフ市には存在しない。観光ガイドブックには「黄金の門」が紹介されているので、キエフに到着してさっそく行ってみた。町全体が世界遺産であり、見所は多い。
まずは黄金の門(写真5、6)を紹介する。大門という大きなものではない。11世紀後半、ヤロスラフ賢公によってキエフ市外を取り囲む城壁が築かれ、町の公式の入口としてこの門が築かれた。当時は門の上に建てられた黄金のドームが遠くからでも輝いて見えたということだ。1240年にモンゴル軍により破壊され、バトゥ・ハーン自身がこの門を通って入城した。現在の建物は1982年に再建されたもので、内部にオリジナルの門も廃墟が包まれるように保存されている。
シェフチェンコ記念国立オペラ・バレエ劇場(写真7) は1901年に建てられたウクライナ随一のオペラ・バレエ劇場である。シェフチェンコはウクライナの画家、民族詩人。コンペで選ばれたサンクトペテルブルグの建築家ヴィクトル・シェレテルによる設計。収容人員は1628人。
国立キエフ大学(写真8)は1834年創設された。建物正面が真っ赤に塗られているのは、ロシア皇帝ニコライ1世が徴兵拒否運動を起した学生達への罰として建物を地の色で塗りつぶすよう命令した名残りだそうだ。
ウクライナ歴史博物館(写真9) はクラシック様式、4階建ての大きな博物館である。先史時代の出土品から、ギリシア植民地時代、スキタイの遺物、ウクライナの独立までの50万点に上る膨大な資料が展示されている。
独立広場(写真10、11)はメインストリートのフレシチャーチク通りを跨いで広がるキエフの中心の広場である。歴史は意外と浅く、19世紀初めまでは城壁の外れで、ゴミ捨て場だったという。ソ連時代に本格的に整備され、独立後の2000年に大規模な改修が行われ、現在はいくつもの噴水が作られ、地下にはショッピングセンターを備えた近代的な広場となり、市民の憩いの場となっている。
キエフの町も3本の地下鉄が町を貫いている。地上はトラム(写真12)が走っており、市民の足である。これはモスクワ、サンクトペテルブルグと同じ古いタイプのトラム。