Images of カジミェシュ
クラクフ(Kraków)
チェコ共和国との国境に近い南部ポーランドの都市で、ポーランドで最も歴史ある都市の一つであり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラクフがポーランド王国の首都であったため、ポーランドの小京都と呼ばれる。
クラクフは、1038年から1569年まではポーランド王国、1569年から1596年までポーランド・リトアニア共和国であった。 1794年からオーストリア帝国領となり、1846年から1918年までオーストリアのクラクフ大公国であった。第二次世界大戦にナチス・ドイツ、戦後はソ連に支配される。
ポーランドの工業、文化の主要な中心地でもあり、中世に栄えた中心街とユダヤ人街は今も当時の名残を残す。ヴィスワ川の上流に位置し、市街地はヴァヴェル城を中心として川の両岸に広がっている。プランティ公園と中世の城壁に囲まれた旧市街の中心にあるのが、広々とした風格のある中央市場広場。この広場にはルネッサンス時代に取引が活発に行われていた織物会館や、14 世紀のゴシック様式の聖マリア教会がある。
クラクフは、西スラブ民族のVistulans部族が定住し、その後、モラヴィア王国となる。モラヴィア王国はハンガリー人に倒された。クラクフはボヘミア王国となる。 歴史書に初めて記載されたのは、966年にアンダルス(イベリアの後ウマイヤ朝イスラム帝国)のユダヤ人記録家イブン・ヤクブによると、クラクフはボヘミアの交易都市であると記述されている。1038年、クラクフはポーランド(ピアスト朝)となる。
13世紀にモンゴルの襲撃でいったん破壊された。14世紀よりクラクフは最盛期を迎え、1364年、カジミェシュ3世によってヤギェウォ大学(クラクフ大学 - コペルニクスが大学生として通った大学として知られる。ポーランド最古の大学)が創設され、それからも織物取引所、聖マリア教会などが建てられていった。モンゴルの襲撃による街の破壊と人口減少後、14世紀のカジミェシュ大王は積極的にユダヤ人を招き入れ、当時はヴィスワ川の中州だった、河川を利用した運送に適した広い土地を彼らの自治都市として提供した。後にユダヤ人たちが豊かになるにつれて自治区は対岸にも広がっていった。
16世紀後半、ヤギェウォ朝が断絶すると、貴族(シュラフタ)運営の身分制議会(セイム)勢力が強まり、王権の弱体化が進んだ。16世紀より徐々に王国の中心はワルシャワへと移行していき、17世紀初頭には正式に都がクラクフからワルシャワへと遷された。そうした中、17世紀前半の三十年戦争、18世紀前半の大北方戦争で国土は荒廃した。18世紀後半にはロシア、プロイセン、オーストリアによる3度のポーランド分割によって国家自体が消滅し、クラクフはハプスブルク君主国のオーストリア領ガリツィアとなった。
1815年、ウィーン議定書によりロシア、プロイセン、オーストリアの保護国であるクラクフ共和国となる。1846年2月、クラクフ市民が反オーストリア蜂起・クラクフ蜂起を起こしたが失敗に終わる。オーストリアに併合されてクラクフ大公国となり自治特権は失われた。この蜂起は2年後に起こる1848年ヨーロッパ革命の先駆的運動とも評価される。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ポーランド文化振興の中心地として重要な役割を果たした。第一次世界大戦を経て、1918年にポーランドが独立を果たしポーランド第二共和国となった。第二次世界大戦に際してナチス・ドイツ軍の占領を受けた。ポーランド総督に任命されたハンス・フランクはクラクフのヴァヴェル城からポーランド総督府の統治にあたった。終戦の1945年、ソ連軍の支配下となった。
第二次世界大戦中は占領者のナチス・ドイツにより、カジミェシュ地区から見てヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラクフ・ゲットーが創設された。オスカー・シンドラーが経営していた工場は、クラクフ・ゲットーのユダヤ人を労働者として雇っていた。工場のユダヤ人労働者が強制収容所に連行される時、彼らを連れ戻しモラヴィア地方のツヴィッタウ(独: Zwittau、現スヴィタヴィ(英語版))-ブリュンリッツ(独: Brünnlitz、現ブルニェネツ(英語版))にある自分の工場へと送った。(映画シンドラーのリストの舞台。)