Images of スワヒリ文化
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お世話になったケニアの人々との別れは???
当然ありがとうで涙に暮れる????ハズ???だった???(??)?
ここまで無事に来て知りきれトンボのような?と言う表現もなんですが??逆に何もないと寂しい物で??誰もが刺激をもとめて案外危ない性格になりだしていたのかも知れないなあ・・・・など馬鹿な話をしていますが・・いよいよ日本に戻る時間が刻々と迫る中何とか思い出に残る楽しい旅をしたいと・・・・ラム島までクルーズです・・・
時代を遡り歴史を見れば?この辺りには7世紀以降インド洋に面したケニア東部にアラブ人が訪れ、港町モンバサ、マリンディ、ラムなどが交易の場として賑わいを見せたのです。
その中でラム島は14世紀以降、スワヒリ文化の中心として栄えたといわれています。石壁の家々が建ち並び、細い路地が迷路のようで、車ではなくロバが行き来しています。これが文化伝統 の世界なのかも知れません・・多くの場所で以外にもロバが仕事をしていたのが印象的です。
凄く起伏がある砂丘とそこに広がる美しいビーチ・そして漁船なのだろうが?三角帆のダウ船が行き交います。
それこそ中世のイスラム世界がそこにポツンと残されたままのような・・・・不思議な世界を感じました。
これらの街は、東アフリカでも最古のスワヒリ文化伝統が保存されている場所として、ユネスコ世界遺産にも登録されたくらいです。
また15世紀になるとポルトガル人が訪れ、約3世紀もの間アラブ人の勢力が衰えてしまいます、その後18世紀後半アラブ人が再び勢力を振るい、ケニア内陸部に勢力を伸ばし、奴隷貿易や象牙貿易を行うようになっていったと言います。
19世紀に入るとヨーロッパからはキリスト教宣教師や探検家などが訪れるようになり、その後ドイツ・イギリスの植民地奪い合う戦いなどにより争いごとが起き、ケニアはイギリスの勢力の下となり、1920年にイギリスの植民地になったのです。
イギリス人達は、気候がよい中央高地で、紅茶・コーヒーなどのプランテーション経営を急激に進歩させています。
政治的にも経済的にもイギリス人がケニアの主導権を握ったことで、アフリカの住民はとても不便な場所に追いやられることとなりました。イギリスの植民地支配抵抗運動は第二次世界大戦後さらに封を切り激化していきました。
1952年にはマウマウの反乱とよばれる運動が続発し、事件落ち着くまでに大勢のケニア人の命が失われたと言われますがその反面ごくワズカのイギリス人の命も失われたのです。
イギリスはこの事件を良い教訓とし今までの植民地政策を止める事を発表し、ついに1963年暮れケニアは独立した独自の国へ歩き始めたのです。その後1964年にはケニア共和国となり、初代ケニヤッタ大統領が誕生します、ケニヤッタ大統領はイギリスと協調し存続しあうと言う政策を進め、現地の優秀なるアフリカ人を積極的に公務員や管理職へと採用し、外国から資本を取り入れる事で工業化を計り、現在はケニヤッタ、モイのあとを継ぎ、キバキ大統領がケニアを治めています。
******簡単な海から内陸に掛けての歴史でした・・・・*****
ラム島の景色は本当に古い町並みで・・立て直すこともこれは案外大変だろうと??思いました。しかしこれだけの石垣から作られた建物はその時代と歴史をそのまま保管しているのだと言う目で見るからか??物凄く威圧感があり、ユネスコ遺産へ登録されただけのそのスケールの重さを感じます。ただ???写真にするとただの古ぼけた町並みが残るだけで哀しいきもするけど・・まあ当時のカメラだと明らめて・・夕方ホテルへ戻り夜24時発のけり自宅を各自で荷物の整理を始め列車に乗る為に駅へ向かいます。この予定だと翌日の早朝07時着でその足で後藤さんの事務所に行き預けた荷物を受け取り15時発のケニア航空でカラチに飛び日本へ帰国する予定でいけそうだ・・・・
長いのか短いのか旅行記さえもが沢山UP出来た事は嬉しい事だ・・自分の記憶力も大したモンダ・・と褒めたりなどしていながら??懐かしいケニアが今如何なのか?をもう一度見たいと言う気持ちが湧きだしているところです。
そんなこんな言う前に20年の月日が経ち・・・・いつのことになるのだろうか??
列車の最終案内の連絡をしています、大きな列車が大きな汽笛と白い煙を吐いてゆっくリとケニアに向けて走りだしました・・戻る道は当然真夜中のアフリカ・・・景色を楽しむことは不可能だろうと諦めていたので早々に深い眠りに落ちたのです・・・・・・何時間が経ったのだろう??辺りの景色は薄暗い朝焼け色をしている、どうして目が覚めたのか?自分だけが不思議に思いながら??友人達の口をポカーンとあいている寝顔が楽しくて。遊んでしまおうかな??と思えば??列車は大きな急ブレーキをキーと言う物凄いブレーキの音と共に車体が右に傾き・・・・体が友人の上にかぶさるように下の段の友人に受け止められてセーフ・・マジでセーフ・・・・事故??何事??この様子ではなにが起きているのか検討も付かないのでとにかく暫らくジートおとなしくしていた・・そのうち大きなスワヒリ語で脱線だ動物とブツカリ前3両が横倒し状態だ!これは半日以上動けんぞ・・・・・と言う意味の言葉が耳に入る???マズイ・・・これはヒジョーにマズイ・・このままではまた?ケニア空港に置き去りにされ・・・カラチで日本行きを待つ様なことにでもなれば??これはマズイと真剣な眼差しで考え込む自分に対して・・オーイ帰らなくて済むんでないの???ラッキーだよな・・・まだ居たいよな??あんだ???馬鹿なこと考えてないで・・電話を掛けるところを探すんだ・・ここはケニアからまだ何十キロも離れている場所なんだぞ・・しかも救助なんて待つ余裕はない!!の緊急な状態は一応皆理解してくれて直ぐに4人が2人に分かれて列車の中の状況を確認に走る・・しかし???この列車・・何しろ25両編成なもので・・長〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い通路を走る走る・・これだけで十分マラソンしたのと同じだろうか??と考える余裕が出来た頃・・見えてきたのが脱線している列車の胴体と明るくなりつつある外の景色だ!!!