Images of マタディ
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1976年4月
日本が立花調査団を派遣したころに、並行して、ロンロ(イギリス)、コミニエール(ベルギー)、日商岩井(日本)の、民間資本によるコンソーシアムが、同じイレボ・キンシャサ間、さらにバナナ・マタディ間の鉄道建設について、ザイール政府の許可を得ながら、自主的に調査を実施していた。
しかし1970年(昭和45年)、ロンロがザイール政府から排除される事態が生まれ、活動を停止する。
それに代わって動いたのが、三井物産、三菱商事、伊藤忠の三社連合で、バナナ・マタディ間のプロジェクトを推進する。
そして、三社連合の成果として、翌1971年4月ザイールのモブツ大統領の訪日が実現した。
その機会に、佐藤総理との共同声明で、バナナ・マタディ間のプロジェクトに対する、日本政府の全面協力がうたわれる。
大統領帰国後、日本政府は直ちに6月運輸省原田官房審議官を団長とする予備調査団を派遣した。
そして引き続き、鉄道や港湾のエキスパート12名よりなる本調査団を派遣すべく、7月には編成を終えた。
当時、国鉄と鉄道建設公団が現地に専門家を送り始めて、ほぼ2年を経過していた。
現地滞在者は、国費(ODA)によるザイール政府への派遣と、ジャーツ負担によるジャーツキンシャサ事務所への派遣を合わせ、ほぼ10人である。
しかしアフリカ勤務に不慣れなだけでなく、物理的にも心理的にも劣悪な環境におかれていた。
皆さんからは、電話や手紙などあちこちの情報網を通じ,「生命の危険にさらされている」、「食料品が欠乏している」など、日本宛のSOSが日常化していた。
外国派遣に慣れている外交官や商社マンに比べ、赴任条件が劣っている不満も背後にあり、解決すべき懸案事項だった。
たとえば、ザイール政府は各人に自動車を与えるとの契約にもかかわらず、実際には個人負担を強いられている。
特に心配だったのはチームワークの乱れで、お互いの悪口が日本に届き、われわれの心を痛める。
そこで、どうすれば現地滞在者を元気にすることが出来るかが、私に課せられた課題だった。
3 派遣者の意識高揚
31 なぜ派遣し、派遣されているかを、もう一度原点に戻って見直し、その結果を自分たちだけでなく、日本国民全体の共通認識に広めるべく努力をする。
32 待遇を改善する。
― 給与、休暇制度、住居など、日本だけでなく、世界のレベルから見て妥当な待遇を、国の制度とすべく努力をする。これはこれからの国際協力事業の発展のためにも、大切な事柄と考える。
33 派遣者の存在理由について、日本国民・国鉄職員へ積極的に広報するシステムを創造する。
34 現地滞在者に対する応援団を作り、育てる。
35 仕事時間外における楽しみの不足も、海外生活の問題点であり、それを補う工夫をする。
― たとえばカラオケ、コントラクト・ブリッジ、ビデオ撮影などの用具を用意。
― しかしもっと積極的に、現地社会に入りこみ、出来れば貢献できないか。
36 両国社会への貢献を、どうすれば実感できるか。その実感を増幅する手段を工夫する。