Images of 上杉憲忠
西武鉄道池袋線西所沢駅から徒歩約10分、戦国時代関東管領山内上杉氏の重臣で武蔵国守護代として南は相模国座間から入間を経て北は武蔵国所沢周辺まで支配していた大石氏の中興、信重(のぶしげ、1334~1424)の墓所である永源寺(えいげんじ、埼玉県所沢市久米)を訪ねました。
そもそも大石氏は木曽義仲の子孫と伝えられ、信濃国の出自と言われています。この信濃国出身の大石氏が関東へ進出してきたのは14世紀半ばの南北朝時代と考えられ当時の鎌倉府の警護番として出仕したのではないかと推定されます。
その後大石氏は鎌倉公方を補佐する関東管領職山内上杉氏の家臣として武蔵国を中心に活動し一時期は武蔵国の他上野国・伊豆国の守護代を務めるに至ります。
ご承知の通り鎌倉府は室町幕府の出先機関で関東10州(後に陸奥と出羽を加えて12州)を管轄するミニ幕府ですが、代々の鎌倉公方が足利一族出身であるが故将軍の後継争いに加われる立場にあり、永享10年(1438)4代公方足利持氏(あしかが・もちうじ、1398~1439)の代では幕府と対立、幕府派遣軍と戦うも敗れ持氏は自害、更に享徳3年(1454)5代公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)による管領上杉憲忠(うえすぎ・のりただ、1433~1455)誅殺を契機に戦乱となり上杉援軍が鎌倉を制圧、鎌倉に帰府できなくなった成氏は新たな本拠地として古河(現在の茨城県)に拠点を移すこととなり鎌倉府は解体されます。
古河に逃れた公方は下総・下野等周辺の地域領主の支持のもとに再編成しますがかつての勢いはなく、代わって勢力を拡大したのは他ならぬ関東管領上杉氏でありました。
上杉氏は4家あり、宅間(たくま)・犬懸(いぬがけ)・扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)とそれぞれ鎌倉の地名から家柄を名乗るようになり、やがて宅間・犬懸は滅亡し扇谷家は相模国から武蔵国南部を、山内家は越後、上野国から武蔵国南部をそれぞれ支配することになります。
次の展開としては両上杉氏が互いに主導を争う中、伊豆の韮山に居していた伊勢氏が扇谷上杉氏臣下の大森氏を策謀により小田原から追放、念願の相模進出を果たします。
小田原に拠点を移した伊勢氏は2代目氏綱(うじつな、1487~1541)の代になりますと摂関家から招いた鎌倉将軍を奉じた執権北条氏を意識して自らを「北条」と称し、かつての鎌倉公方を奉ずる程の権力をめざします。
戦国時代中期に入りますと勢力拡大著しい小田原北条氏という新興勢力と古河公方・両上杉氏連合軍という旧勢力が武蔵国北部で対峙する構図と変化します。
その雌雄を争う決定的な事件は天文15年(1546)年の河越の戦いで、小田原北条氏3代目氏康(うじやす、1515~1571)による河越城を包囲している連合軍を背後から攻めたて壊滅的に打ち破ります。
その結果扇谷上杉氏は朝定(ともさだ、1525~1546)の戦死により扇谷家は滅亡、山内上杉氏は憲政(のりまさ、1523~1579)は勢力を失い上野国平井城に敗走、その後北条軍の追討に耐えられず長尾氏を頼って越後に逃れます。
また古河公方足利晴氏(あしかが・はるうじ、1508~1560)は地元古河に戻りますがその権威すら維持困難となり、次第に時流の変化に敏感な地域領主などの支持を失うことになります。
さて大石氏の話に戻りますが、同氏に関する情報が限られているので明確な記述ができない歯痒さを感じますが、その中で大石信重は大石氏が関東進出の際の立役者と指摘されています。とりわけ信重が仕えた管領家は山内家上杉憲顕(うえすぎ・のりあき、1306~1368)で上野方面での戦いでは憲顕に忠節を尽くして功績を挙げて、武蔵国比企郡に領地を賜ります。
やがて管領職に就任した憲顕に従い上野国から各地を転戦し更なる忠節を尽くし憲顕から入間・多摩両郡の13郷を賜りこれが以降の歴代大石氏の武蔵国支配に繋がったとすれば信重は大石氏の礎を築いた人物と言っても過言ではないと思います。
尚、信重の後歴代の大石氏を経て定久(さだひさ、1491~1552)の時代になりますと天文15年(1546)4月の河越夜戦で越後へ亡命した主家である上述の上杉憲政に見切りをつけ、小田原北条氏から3男氏照(うじてる、1540~1590)を養子とし家督を譲り出家、残された部下たちは事実上小田原北条氏の支配下に組み入れられることになります。
2022年10月10日追記
境内に建てられた説明板には次の如く紹介されています。
『 所沢市指定文化財
大 石 信 繁 墓 塔
永源寺を創建したと伝えられる大石信繁は、木曾義仲の末裔を名乗り、室町幕府の関東管領を務める山内上杉氏に仕えました。その後合戦の手柄によって上杉氏に重用され、武蔵国のうち多摩・入間両郡の内13郡の領主となり、さらには武蔵・伊豆両国の守護代を歴任しました。
本堂の石段を上がったところに覆屋に入った石塔がありますが、これが大石信重の墓塔です。五輪塔や宝篋印塔などの部分で構成されていますが、銘文のある基礎石は宝篋印塔の形式であるので、本来は宝篋印塔であったと考えられます。銘文には次のように刻まれています。
直山守公?主
正長三祀**
甘八日 己姓
「直山守公」とは、大石信重の法名です。この石塔はいささか変形ながら
中世の所沢地方を支配した大石氏の資料として貴重なものです。
平成15年3月
所沢市教育委員会 』
関東鉄道常総線下妻駅から東へ徒歩5分、多賀谷氏居城の下妻城(しもづまじょう、茨城県下妻市本城町)を訪問しました。
多賀谷氏は武蔵国騎西の多賀谷郷豪族を出自とし、武蔵七党のうち野与党あるいは村山党の後衛とも伝えられますが定かではありません。何れにせよ多賀谷家政(たがや・いえまさ)が結城直光(ゆうき・なおみつ)の家人になったのが多賀谷氏の始まりと伝えられています。
嘉吉元年(1441)の結城合戦で結城城は10ヶ月の攻防の末落城、結城氏朝・持朝親子とその一族は自刃、多賀谷氏は結城氏の末子を救出しその後の結城氏再興に忠臣ぶりを発揮します。
鎌倉公方足利氏と管領の上杉氏の争い(享徳の乱)では主家結城氏に従い公方側に与し高経(たかつね)は上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)を討ちその功により当地下妻三十三郷を与えられます。
多賀谷氏は結城氏の重臣として「結城四天王」の一角としての地位を占めますが所領を広げる中でしだいに結城氏からの独立色を強め、ついに常陸太田の佐竹氏と同盟し、他の四天王領を次々と攻めて支配下に収めついに20万石に及ぶ支配地を獲得します。
天正18年(1590)小田原の役で多賀谷重経(たがや・しげつね)は豊臣秀吉の石垣山城に参陣し本領である下妻六万石を安堵されますが秀吉からは結城氏の臣下として扱われます。
文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵では重経は病気と称し参陣せず、佐竹氏から迎えた養子の宣家・弟重康を肥前名護屋城に派遣させますが秀吉の叱責を受けます。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは佐竹氏出身の藩主宣家は佐竹氏と共に東軍に参陣しなかったため、徳川家康より佐竹義宣(さたけ・よしのり)の出羽国へ改易に伴い宣家も佐竹氏に従い下妻を去ることになります。
現地で入手したパンフレット「下妻歴史散歩」に「戦国武将・多賀谷氏について」の項では下記の通り記載されています。
「下妻多賀谷氏初代氏家は、結城合戦の際に結城氏朝の末子(結城成朝)を抱いて城を逃れ、足利成氏の鎌倉公方就任後は結城家の再興に奔走するなど主家に忠節を尽くしました。
氏家は鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠の対立の中で、享徳3年(1454)結城成朝に従い憲忠を討ち、その功により成氏より河内郡を賜りました。また氏家は寛政2年(1461)多賀谷城の築城を行っています。続いて家植の代には、近隣地域をその支配下に治め、戦国大名として自立する足る地盤を築きました。その後、家重、重政、政経、重経らのもと、西は鬼怒川右岸、東は桜川流域、南は牛久沼河畔、北西は結城氏領と拮抗するまでに領土を拡大しました。
しかし、重経の時代、豊臣秀吉より結城氏に属することを命ぜられましたがそれを快しとせず、また朝鮮出兵にも病と称して出陣しませんでした。そのため、文禄の検地では、6万石の領有のみしか認められず、さらには、関ケ原の戦いでは、東軍に参陣しなかったため、慶長6年(1601)改易されたとされ、多賀谷氏は下妻の地を去ることになりました。」