Images of 上海租界
南京路は上海市中部(浦西)を東西に走っている。東部に当たる南京東路は黄浦区を外灘から西蔵中路まで走っており、西部に当たる南京西路は人民公園から静安寺へ続いている。1943年、共同租界が終わりを迎えると、政府は旧南京路街(英国租界)を南京東路と改め、旧南京路から西に伸びていたバブリングウェル路を南京西路と改称し、このふたつをあわせて南京路としました。この路街の統合で南京路の総延長は5kmになりました。 人民公園(旧競馬場)を越えて西には上海で最も古く権威のあるホテル群が並び、パークホテルもこの中にあります。南京西路はここから始まり、ここからは過去の共同租界です。高級商店やオフィスビルが立ち並んでいる。上海展覧中心もここにある。過去には幾つか大きな邸宅や団地があったが、現在はこれらは政府に壊されてしまったが上海優秀歴史建築に指定され、保護されている建物が残っています。
上海優秀歴史建築は以下の通りです。
第2回 中国銀行西区分行 中国工商銀行/住宅 静安区南京西路80号
第1回 華安人寿保険公司、金門飯店 金門大酒店 1933年 黄浦区南京西路104号
第1回 西橋青年会 上海体育大厦 1932年 黄浦区南京西路150号
第1回 国際飯店 国際飯店 1934年 黄浦区南京西路170号
第1回 大光明大劇院 大光明電影院 1933年 黄浦区南京西路216号
第1回 鞄馬総会 上海美術館 1933年 黄浦区南京西路325号
第2回 犹太人総会 春蘭集団 静安区南京西路722号
第3回 大華公寓 公寓 1912年−1936年 静安区南京西路868-882号
第2回 泰興大楼 泰興大楼 静安区南京西路934
第3回 少児図書館 静安区南京西路962号
第2回 義大楼 義大楼 静安区南京西路石門二路
第2回 静安別墅 静安別墅 静安区南京西路1025弄
第2回 郭宅 外班、対外友協 静安区南京西路1400号
第3回 住宅 花園住宅 静安区南京西路1522弄
江寧路は上海市静安区と普陀区の1本の南北に向かう大通りです。共同租界時代には為戈登路(ゴードン・GordonRoad)と言う名前の道でした。南は南京西路(靜安寺路)を起点に北は蘇州河に至ります。全長の2594メートル。19世紀末、此処は上海西の郊外で一面の農地でした。1899年、上海の共同租界が大きく拡大され、租界に組み入れられました。1900年、公共租界工部局は道路を建設して、イギリスの小銃隊の隊長のゴードン名で命名します。沿道で住宅、工場が造られ、1943年、汪精衛政府は上海の共同租界を接収して、江蘇省の地名の江寧路に改名しました。交差する路は以下の通りです。南京西路(靜安寺路),奉賢路,北京西路(愛文義路),新閘路,武定路,康定路(康腦脱路),昌平路,淮安路,海防路,安遠路(檳榔路),新會路(馬白路),長壽路(勞勃生路),普陀路,澳門路,宜昌路
上海優秀歴史建築
第1回 美大戯院 美大戯院 1941年 静安区江寧路99号・訂正66号
第2回 玉佛寺 佛教協会 普陀区江寧路999号
第4回 戈登路巡捕房 上海商業会計学校静安分校 静安区江寧路511号
上海の霍山路エリアは上海ユダヤ難民収容所があった事で有名です。このユダヤ難民に付いては多くの日本人が関わっていました。1938年3月、ナチスドイツはオーストリアに侵入した後直ちにユダヤ人への迫害を開始しました。1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人達は、日本通過ビザを求めカウナスの日本領事館に押し寄せた。当時日本は渡航自由でした。日本領事館員であった杉浦千畝は外務省の意向に背き、6000人とも8000人ともいわれビザを発給してユダヤ人の命を救いました。ユダヤ難民は日本を経由して上海へ向かいました。何故なら入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけでした。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎に当てるなど、ユダヤ人の保護に奔走しました。上海租界にはユダヤ四大財閥がいて経済的に同胞を援助しました。当時日本の軍部もナチスのユダヤ人迫害には反対で難民受け入れには好意的でした。その当時、上海市には四万人のユダヤ難民がいたそうです。舟山路には追われたオーストリアを偲んで「リトルウィーン」と呼ばれたレンガ造りの建物に飲食店が密集していました。現在は上海住民の住居で上海優秀歴史建築に認定され保護、改装工事中です。ユダヤ難民記念館には南京の虐殺記念館に大きく貼られた日本人将校の百人斬りと、杉原千畝の行った善行を対照的に展示しています。日本も売春婦問題ばかりで無く、杉原千畝の行った善行も広く公表すべきでは無いでしょうか。