Images of 九戸政実
関白になった秀吉は、私闘を禁じ(惣無事令)違反する大名を厳しく罰した。かねて秀吉に反抗的であった小田原の北条氏が群馬県の真田領を侵略したのをとがめ諸大名を動員して討伐(1590年7月)し、戦国大名の後北条氏は滅亡した。
引き続き7月26日、秀吉は宇都宮氏の城に入り小田原攻めに参陣しなかった東北地方の大名の所領を没収すべく蒲生氏郷や浅野長政らを主力として仕置軍を編成して東北地方を北進し、参陣しなかった大名の各城を制圧し領地を没収(改易)した。これが「奥州仕置」で、土地は中央政府のものであると示された。
遅参した伊達政宗は150万石から72万石、さらに58万石に減封された。
これで鎌倉時代から続いた 石川、江刺、葛西、大崎、和賀、稗貫、黒川、白河の諸大名は領地を没収され、参陣した最上、相馬、秋田、津軽、南部、戸沢(角館)の諸大名は領土を安堵された。
仕置軍は改易した稗貫氏の花巻城(鳥谷ヶ崎城)に浅野長政を置いて奉行とし、郡代・代官を置いて引き揚げたが、直後(1590年)に「奥州仕置」に対する不満から、葛西・大崎一揆、仙北一揆、和賀・稗貫一揆などが勃発し、仕置軍が配置した代官は各地で駆逐された。
一方、南部信直は小田原征伐に参加し、奥州仕置軍にも従軍していた。南部家は元来、一族の三戸南部氏、九戸氏、櫛引氏、一戸氏、七戸氏らの同族連合であり、室町時代の武将列伝では南部宗家と九戸氏は同列の武将とされていたが、策を弄して南部氏の棟梁となった入婿の南部信直が秀吉によって宗家とされ、他の一族は家臣とされたので九戸氏、櫛引氏ら諸将には不満が残った。
1591年、南部一族の三戸城正月参賀を九戸政実が拒否し、九戸政実の乱が勃発し、三月以後、九戸軍は三戸南部勢を各地で撃破して強大な勢力となった。
南部信直は使者を秀吉に送って(6月)援軍を要請する一方、一揆軍に包囲された鳥谷ヶ崎城の浅野長政を救出して南部氏の本城の三戸城に移した。
秀吉は6月20日に再仕置軍を編成、徳川家康、前田利家、石田三成を各方面軍の長とし、伊達、最上、秋田、津軽ら東北の諸将を先陣とする6万の再仕置軍を編成して派遣した。九戸政実以下の地元軍5000は九戸城に籠城、仕置き軍は6万の軍勢で包囲したが守りが固く犠牲が多く、冬も近づき食料も不足したので包囲軍から和議を申し入れた。
9月4日、籠城軍兵士の生命安堵の約束で九戸城は開城したが、約に違い城兵や女子供の多くは斬殺された。1995年の発掘調査では頭部のない骨や、刀創のある骨が多数発見されている。
九戸政実ら8名の将は、宮城県栗原市の仕置軍本陣で斬殺された。首級は乞食に身をやつした部下が密かに持ち帰ったと言われ、九戸村に首塚がある。
負け戦がなかった稀代の戦国武将・九戸政実の死で、東北の地方政権は消滅し、中世が終わった。
中央政権に対する組織的な反対はなくなり、諸大名は中央政権に配置された地方領主となり、同族連合であった伊達・南部なども近世大名に脱皮した。
なお、九戸政実が立て籠もった九戸城は、新幹線二戸駅の北東約1500メートル の二戸市内にある。落城後、蒲生氏郷が一部を改修して福岡城と改名し、南部家が盛岡城に移転するまで本城であったが、地元では九戸城と呼び続けた。
九戸政実の生地の伊保内村は二戸市の東隣で、旧九戸郡の戸田村・江刺家村と合併して昭和30年に九戸村が作られた。
九戸村には菩提寺の長興寺や祈願所の九戸神社があるが、九戸氏の姓は九戸郡に由来し、九戸村は昭和に作られた新しい村である。