Images of 別所晃吉
明石では須磨浦公園、敦盛塚、海つり公園、鉢伏山、鉄拐山、一の谷古戦場跡碑、源平合戦800年碑、蕪村芭蕉句碑、垂水五色塚古墳、舞子公園、明石魚棚、明石城跡、無量光寺、船上城跡、望海浜公園、屏風浦、明石原人碑、加古川市、高砂市では鶴林寺、尾上神社、石の宝殿などを見学した。
明石原人(あかしげんじん)。1931年兵庫県明石市の西八木海岸で民間人・直良信夫が古い人骨の一部・右寛骨〈う-かん-こつ〉を発見、明石原人(あかしげんじん)と称した。日本で発見された化石人骨を基に日本列島に居住したと推測された古人類だが現物は戦禍によって失われており疑問の解明は望めない状況。明石原人は従来の呼称で北京原人やジャワ原人などとは異なり猿人・原人・旧人・新人のうちどの進化段階に該当するか定かでなく「明石人」とする場合も多くなっている。
直良がアマチュア考古学者であったこともあり専門家には相手にされず第二次世界大戦中の1945年
の東京大空襲によって化石の現物は焼失。西八木海岸に久しぶりに行ったが遊歩道が整備されていたが、明石原人発見場所はフェンスで囲まれ雑草が手入れされていない寂しいものだった。
船上城(ふなげじょう)。船上城(ふなげじょう)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市新明町)にあった城で明石川河口の西側、明石海峡に面した部分と明石川の湿地帯に築城された平城。
この城の築城については二説あり別所吉親が林ノ城として築いた城、高山右近が船上城として築城した城とで林ノ城が一旦廃城となりその後右近が新たに築城しなおしたと考えられている。船上城(ふなげじょう)跡は畑の中の小さな社になっていた。
無量光寺(むりょうこうじ)。無量光寺(むりょうこうじ)は兵庫県明石市にある浄土宗の寺院で源氏物語明石の巻に登場する光源氏の屋敷であった「浜の館」のモデルであるとする伝承がある。門前にある細い道は「蔦の細道」と呼ばれ光源氏が明石の君に逢うために通った道のモデルとされる。
1613年に中興されたとされるが1945年の神戸大空襲により全山焼失、左甚五郎作と伝わる彫刻のある山門だけは焼失を免れ焼失した本堂と源氏稲荷は戦後に再建されている。
密蔵院。平安時代に創建された古刹だが昭和20年7月の明石大空襲によって焼失し現在の本堂は昭和51年に再建された。「油をかけて開運や健康」を祈願する珍しい「油かけ地蔵」が地元の人々の信仰を集めている。
魚の棚(うおんたな)。魚の棚(うおんたな)は、兵庫県明石市本町一丁目にある商業地区で「明石鯛」「明石蛸」などの鮮魚店が多く明石の観光地になっている。明石銀座通り周辺のアーケード街が「魚の棚商店街」よばれ全長350mのアーケードの下に100以上の店舗が軒を連ね名物の明石焼きの店も多く出店されている。
須磨海釣り公園。神戸市立須磨海づり公園は沖合い400mの展望台に休憩所売店、軽食堂、洗面所を供えた昭和51年春開園した海づり公園。海上の釣り台の周辺には漁礁があるため魚が集まり産卵したり回遊するため四季を通じて魚がよく釣れるとのこと。
須磨浦公園(すまうらこうえん)。須磨浦公園(すまうらこうえん)は、兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町にある公園で神戸市の鉢伏山・鉄拐山山麓の斜面やその周辺からなる。1935年に開園しており歴史的には源平の古戦場、一ノ谷の戦いの地としても知られ、神戸市指定有形文化財の「敦盛塚」などの史跡がある。与謝蕪村、松尾芭蕉、正岡子規、高浜虚子などの句碑も園内に設置されている。
みどりの塔。須磨浦公園の東端にある女神像を台座に頂いた「みどりの塔」は、みどりの羽根運動の一事業として昭和29年に建てられ刻像は薫風と題し、神戸市の発展飛躍を表わし、レリーフは希望と平和を象徴している。塔をコの字形に石塀が囲み左右の塀の上に高さ1・5メートルの石柱が立っており頂きにあった一対の石の地球儀(直径1・2メートル)のうち、左の地球儀が地震の揺れで塀の外側に落ち、そのままの状態で残されている。
与謝蕪村.. の春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな の碑。
与謝蕪村(1716−1783年)は51歳の春、讃岐への旅の途中、須磨に立ち寄っている。須磨一の谷は、源平合戦の話に深く心に留めていたようで瀬戸の美しい展望に心を奪われ、須磨の海のゆったりした広がりに、思わずこの句が出たものと言われている。
松尾芭蕉の蝸牛(かたつむり)角ふりわけよ 須磨明石 の碑。
松尾芭蕉(1644−1694年)は1688年弟子と須磨・明石への旅で「平家物語」にゆかりの地をめぐり須磨を訪問している。
松風・村雨の旧跡、須磨の関屋跡、一の谷、鉄拐山に登り、ここで詠んだ句がこの句とのこと。
ことづてよ 須磨の浦和に 昼寝すと/ 正岡子規
月を思ひ 人を思ひて 須磨にあり/ 高浜虚子 の句碑もある。
師弟句碑として珍しい石碑で師匠の正岡子規が療養中に詠んだ「ことづてよ・・・」の句に対して、弟子の高浜虚子がこの地で子規を看病したことを忍んで「月を思ひ・・・・」の句を詠んだもので師弟の情愛が浮き彫りにされている。
敦盛塚石造五輪塔。須磨浦公園付近は源平一の谷合戦場として知られ1184年に当時16歳の平敦盛が熊谷次郎直実によって首を討たれそれを供養するためにこの塔を建立したという伝承から、「敦盛塚」と呼ばれるようになったそうだ。五輪塔は総高4m近いもので中世の五輪塔としては石清水八幡宮(京都府八幡市)に次ぎ、全国第2位の規模を誇っている。山陽須磨浦公園駅下車西200mにある。
ひよどり展望公園(ひよどりてんぼうこうえん)。ひよどり展望公園(ひよどりてんぼうこうえん)は、神戸市兵庫区鵯越筋にある公園で市道夢野白川線(旧西神戸有料道路)の鵯トンネル入り口の上にある。山頂に展望台があり瀬戸内海を望むことができハイキングコースになっている。源義経の「鵯越の逆(坂)落とし」で有名。三草山合戦を制した義経が、軍を二手に分け、平家の本陣の裏にあたる鵯越の急斜面を駆け下りて、予想を裏切る奇襲攻撃を仕掛け、勝利に導いたとされる。
五色塚古墳 (ごしきづかこふん)。五色塚古墳 (ごしきづかこふん)は 千壺古墳とも呼ばれ、4世紀後半に築かれた兵庫県下最大の前方後円墳。築造当時の姿に復元され、雄大かつ高度な古代の土木技術を体感できる。五色塚古墳の上からは淡路島や明石海峡大橋まで良く見える。
生石神社(おうしこじんじゃ)の石の宝殿(浮石)。石の宝殿(いしのほうでん)は人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称で兵庫県と大阪府に5ヵ所ある。石宝殿古墳は大阪府寝屋川市の高良神社裏山にある古墳で露出した石室から石宝殿古墳と呼ばれ、国の史跡に指定されている。兵庫県高砂市・宝殿山山腹の生石神社(おうしこじんじゃ)に神体として祭られている石の宝殿は鎮の石室(しずのいわや)、天の浮石(あめのうきいし)または単に浮石とも呼ばれている。生石神社(おうしこじんじゃ)は宝殿山山腹にある神社で石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。
生石神社(おうしこじんじゃ)の石の宝殿は幅6.4m、高さ7.7m、奥行き7.2m。重さは推定500トンで凝灰岩の岩山の中腹を削って作られており三方を加工前の岩盤に囲まれている。
鶴林寺(かくりんじ)。兵庫県加古川市にある仏教寺院で宗派は天台宗、本尊は薬師如来。
近畿地方に数多くある聖徳太子開基伝承をもつ寺院の1つで、太子建立七大寺の一つともいう。平安時代建築の太子堂(国宝)をはじめ多くの文化財を有し、「西の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺。境内、塔頭の周囲三方が鶴林寺公園として整備されている。
尾上神社(おのえじんじゃ)。兵庫県加古川市にあり住吉四所を祀っている神社。神功皇后が三韓征伐の際に、この地に上陸したが長雨のために船を進めることが出来なかったため、「鏡の池」で潔斎沐浴して晴天を祈願し、住吉大明神を勧請したことが、当神社の起源といわれる。神社にある尾上の鐘とも呼ばれる梵鐘は国の重要文化財に指定されており境内には高砂にも詠まれ天然記念物であった尾上の松があることでも有名で現在は五代目の松。
写真はトラブルで失ったため、旅の記録を残すために神戸市、明石市、高砂市の過去訪問時の写真や観光紹介写真を使用した。
(写真は一の谷古戦場跡碑)