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真龍山・神宮寺(じんぐうじ、茨城県古河市横山町)はJR宇都宮線古河駅から徒歩8分に位置する真言宗豊山派の寺院で、鎌倉府の足利成氏(あしかが・しげうじ、1446~1497)が追われて古河に移る際、当寺院も成氏に従って移転したという親成氏の社で境内説明板によれば下記主旨となります。
「当寺院はもともとは鎌倉にあって、時は花園天皇御代である文安3年(1446)5月に良宥上人の開基で室町幕府の出先機関である鎌倉府公方足利成氏の帰依が深かったようです。
享徳4年(1455)、鎌倉公方を補佐する関東管領との対立が顕著となっているなか成氏が管領職の上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)を自宅に招き隙をみて憲忠を誅殺する事態に発展、幕府は駿河守護大名である今川範忠(いまがわ・のりただ)に命じ鎌倉を攻撃し、上杉氏討伐のため鎌倉を留守にしていた成氏はやむなく下総国古河に移りこれを機に古河公方と称します。
この時成氏の守り本尊である「十一面観音菩薩像」を良宥上人が守護して、供に古河に移転し、古河城中の観音寺曲輪を賜り建立して新たに心城院と称する事になります。
後刻古河公方命によって「十一面菩薩」を雀神社の本地仏として、境内の観音堂に祀られます。その際心城院を別所祈願所とし、法施として寺領7石を賜ります。
江戸時代になって元和6年(1620)の頃当時の城主である奥平美作守忠昌(おくだいら・みまさかのかみ・ただまさ)が古河城増築工事のため、町割りを実施した際、現在地に移転、真龍山心城院神宮寺と改称されます。
慶安元年(1648)8月、三代将軍家光から改めて朱印7石を賜り、貞享5年(1588)1月、類火に遭い寺宝・縁起等を焼失します。
元禄4年(1691)再建され更に、大正7年(1918)大修繕を致し、以降土台を強固にしたり、屋根の瓦を新しく葺き替えて現在に至ります。」