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軍用無線のブログ JA2GZU suzuki shinichiMQ-8 ファイアスカウト 無人航空機(無人ヘリコプター)【海上自衛隊】ノースロップグラマン社製無人ヘリ 海自「MQ 8C」を2023年より20機導入MQ-8 ファイアスカウト 無人航空機(無人ヘリコプター)無人航空機護衛艦で無人ヘリ運用を検討中の日本政府、尖閣諸島地域での警戒監視に活用日本政府は2023年から最大20機の無人ヘリコプターを購入し、海上自衛隊の船舶に配備して東シナ海のパトロールに活用する方針だ。読売新聞が28日、軍事関係者への取材を基に報じた陸上自衛隊 職種紹介(情報科)海上自衛隊が導入予定のドローン MQ-8 ファイアスカウト【兵器解説】【海上自衛隊】ノースロップグラマン社製無人ヘリ「MQ 8C」を2023年より20機導入 MQ-8 Fire Scout UAV On USS McInerneyFire Scout MQ-8 UAV NAVAIR OvervieNorthrop Grumman MQ-8 Fire ScouHelicóptero UAV: Fire Scout (MQ-8)Unbelievable Video: U.S Navy’s MQ-8C Fire Scout Unmanned Helicopter Ready For Operations 15 無人航空機と先進ドローン技新型レピター New RepeaterTour of Florida Simulcast Group Prime Repeater SiteTARC 147.105 New RepeaterTARC N4TP Repeater Final TestingVHF-UHF 145.500-439.000 Mhz. repeater is restored after 2 years of pause海自YouTube 令和2年度実機雷処分訓練および【週刊海自TV:海自女子】救難飛行艇「US-2」パイロット令和2年度実機雷処分訓練海上自衛隊 令和2年度 実機雷処分訓練 掃海母艦うらが横須賀出港【週刊海自TV:海自女子】救難飛行艇「US-2」パイロット【海上自衛隊公式広報ビデオ】~STRENGTH & READINESS~ 「精強即応」【海上自衛隊広報ビデオ】DEEP BLUE SPIRITS "決断" ~海上自衛官 5つのスピリッツ~【海上自衛隊広報ビデオ】海上自衛隊 5つのミッション OPENING【海上自衛隊広報ビデオ】海上自衛隊 5つのミッション MISSION3:「和」平成30年 日本武道館「鏡開き式・武道始め」
軍用無線のブログ JA2GZU suzuki shinichi 日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故あのときなにが?在日米軍が謎の救助中止…御巣鷹から37年 1985年(昭和60年)8月12日 日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図 Ver1.2 & ボイスレコーダー)日航機墜落事故 生存者証言 【墜落瞬間の恐怖】 遺書 ボイスレコーダー【閲覧注意】日航機墜落事故 生存者が語った墜落までの生々しい証言が恐怖【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 日航機123便墜落事故の謎 真相を追った元日航客室乗務員!【初公開・23年前に製作されてお蔵入りになった番組】日航123便墜落事故検証特番123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年(15/08/12)日航機墜落事故から36年 灯籠点灯し犠牲者に祈り(2021年8月12日)佐久電話局での日航機事故対応と教訓(詳細報告)―携帯電話はこうして生まれた―日航機墜落現場の御巣鷹山での救助活動の状況講師:佐藤 修三氏(1971年電子工学科卒)事故発生1985年(昭和60年)8月12日(月)PM6:50日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行 同社定期123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」) に墜落した航空事故である。乗員、乗客524名で、520名が死亡した世界最大の航空機事故である。事故当時、佐久電報電話局長の任にあった講師の佐藤修三氏は、目まぐるしく変わる墜落地情報に翻弄されながらも、 的確な判断とリーダシップを発揮して、大混乱のなか困難を乗り越えて通信手段を提供してい行くことになる。講演内容1.事故対応模様 2.後日記 3.日航機事故対応を経験しての教訓日航事故対応の本文に戻るName=事故対応模様1 事故対応模様1.1 事故発生当日は頭が重く、17:30には帰宅する。まだ日は高く、 夏休みで我が家に泊っていた甥姪二人と私の息子 寛太郎、幸之介、泰三を連れて近所のグランドで野球の練習をした。18:30ごろ帰宅し、夕食後NHKのニュースを見ていた。 19:20ごろ「日航機行方不明」の字幕スーパーが入り、 驚きとともに何となく事件に自分が関係している様な一種の緊張感を感じた。19:45ごろ突然NHKは通常番組を中断し、日航機事故特別番組に切り替えた。加福機械課長から「佐久市付近に墜落」との報道あり。至急屋上にて調査します」の電話があり、 急いで着替えて出局した。(20:00ごろ)佐久電話局の受け持ちエリアは赤色の破線で示されている範囲。 東は群馬県境、南は山梨県境。北は小諸、軽井沢、西は八ヶ岳連峰。 東京都の半分ほどの広さ。1.2 対策本部の設置次長室に「日航機墜落事故対策本部」を設置した。派遣したので、佐久局も準備してほしい。 今晩中に100本程の臨時電話設置になるかも知れない」と連絡を受けた。加福機械課長より「2F試験室奥に、対策本部の設置にとりかかった」 との連絡を受けたが、至急次長室に変更するように指示した。次は社員の動員である。都築君(労厚係長)から、 分会執行部が市内で懇親会を開催しているとの連絡を受けた。 そこに連絡し各課必要人員を呼び出すように依頼。盆で帰省中の、 児玉線路課長、下条営業課長には連絡がついたが。 北沢次長、村山庶務課長には連絡が取れなかった。このような中で20:30、次長室に“日航機墜落事故対策本部”を設置した1.3 初仕事は、資材とガソリンの手配20:30 計理課長に電話機在庫数の把握を依頼、 都築君に隣の相馬ガソリンスタンドを開けてもらい38台の全車両を満タンにするように指示。TVでは、暗闇の中でいく本も筋状に燃えている山林を、ヘリコプターが実況中継。 場所は不明。北相木村の御座山、北斜面か?との報道あり。1.4 臨時電話の申し込み殺到21:00ごろ、報道関係の臨時電話設置申し込みが殺到地元の朝日新聞坪井記者より、北相木村、 御座山荘に臨時電話を10本、FAX1台設置の申し込みを受ける。神頭副課長に、場所と電話線の空回線を調査させる。 このころから報道関係の臨時電話設置申し込みが殺到する。 御座山荘前には、空回線1本との連絡。北相木村役場では11本しか空がない。22:00ごろ、北相木村役場に向けて、 TZ-403(400Mhz帯の非常災害対策用電話で24回線が確保できる。北相木村は、佐久市の東南方向、佐久平を南から北に流れる 千曲川とはほぼ直角に東に伸びた谷間にある。 このため、佐久本局からは、直接電波が届かないため、 1班は中継基地になる八ヶ岳の中腹へ、もう1班は北相木村村役場へ)の出動を要請した。企業遺産 ドコモのショルダーホン 日航機事故で緊急登板NTTドコモが発足してから25年が過ぎた。携帯電話の原型となった「ショルダーホン」をNTTが世に送り出したのが、1985年の暑い夏。当時の傍流だった開発者たちの思いが詰まったケータイはその後、誰も予想できなかった普及曲線を描く。■超法規的措置で使用許可85年8月15日、NTTの無線技術者だった加藤薫氏(66、現ドコモ取締役相談役)は、戦後最悪とも言われる航空機事故の現場に向かった。3日前に日航ジャンボ機が墜落した御巣鷹山だ。草をかき分けて登山し、山の尾根に立つと真っ黒な煙が見えた。「ここから先には立ち入れません」。現場捜索に追われる警官に加藤氏が差し出したのが、開発したばかりのショルダーホンだった。加藤氏は自衛隊の関係者を呼んでもらい、その場でショルダーホンが家庭の電話機のように通話できることを実演した。ショルダーホンの重さは3キロで一度の充電で話せるのは40分だけ。大きめの弁当箱のような箱に電話機がくっついている。ストラップで肩からぶら下げて持ち歩くが、当然ながらズシリと重い。社内では「着脱式自動車電話」と呼ばれ、あくまで持ち運べる自動車電話という位置づけだった。それでも御巣鷹山の捜索で使われていた無線機より性能は高い。事前の性能評価では、山中に2つあった中継局を少なくとも1つにはできるという結果が出ていた。12台が捜索隊に提供され実際に使われた。実はショルダーホンの商用化は9月に予定していた。この時点で電波利用の免許は得ていなかったが、NTTは郵政省(現総務省)に超法規的措置の適用を申請。水戸市と宇都宮市の拠点から電波を送ってつながるようにした。加藤氏をリーダーに8人を事故現場に送り込んだ。ショルダーホンは予期せぬ緊急登板でデビューした。の6年前に日本電信電話公社(現NTT)に無線技術者として入社したのが、現ドコモ社長の吉沢和弘氏(62)だ。チューター役が加藤氏。2人ともショルダーホンの開発陣に名を連ねた。■ケータイつくった「無線屋」2人が次に目指したのが正真正銘の携帯だ。1年半後に完成したのが日本初の携帯「TZ-802型」だ。重さは約900グラム。当時としては画期的な小ささだった。最も苦労したのは電波を捉えるアンテナだった。本体から引き出せる形に行き着くだけで1年ほどかかった。NECや松下電器産業(現パナソニック)など他社の技術者も訪ね歩いた吉沢氏は「自分一人では何もできないということを学んだ」と話す。「無線屋」。固定電話の会社だったNTTで、加藤氏や吉沢氏は、半ば蔑みの意味を込めてこう呼ばれていた。完全な傍流だが、吉沢氏は「傍流だからこそ面白いことができる」と考えたと言う。92年にドコモの前身となるNTT移動通信網がNTT本体から分離される際に、吉沢氏は自ら手を挙げて参加した。加藤氏は94年に加わったが部下から冗談交じりに「左遷ですか」と言われた。当時はまだ携帯ではなく女子高生の間で人気だったポケベルでなんとかやりくりしていた。だが90年代後半になると携帯電話が一気に普及する。99年にはネットをケータイで使えるiモードが実用化され、ドコモが爆発的な成長を始めた。固定電話は97年を境に減少に転じ、かつての無線屋が主役に躍り出た。加藤氏は2012年にドコモ社長となり、16年には苦楽を共にした吉沢氏にバトンをつないだ。だが、2人の無線屋がトップとなった頃、ドコモは新たな試練にさらされる。米アップルがiPhoneで幕を開いたスマートフォン(スマホ)時代への挑戦だ。■iモードの成功が足かせにドコモはショルダーホンを源流に日本初の携帯電話を発売し、1990年代に携帯の王者となった。99年2月、その地位を盤石にするかに思えた新サービスを始めた。ネット接続サービス「iモード」だ。iモードはドコモの3人の社員が中心となって生まれた。その一人、元雑誌編集者の松永真理氏(62)は著書「iモード事件」で「IT革命なんてそんな大それたことは、はなから思ってもいなかった」と振り返るが、紛れもなく電話とネットが融合するモバイルインターネット時代の到来という「事件」だったその実力は当初から認識されていたわけではない。かつての無線屋、加藤氏が初めてiモードで読んだ電子メールは、3人衆の一人の榎啓一氏(68)から届いた。液晶の画面に小さく映る字に加藤氏は思わず言った。「榎さん、こんな字読めませんよ」加藤氏の予想を反してiモードは爆発的にヒットする。ライバルのKDDIも「EZweb」で追随する。両社の意向を受けて日本の電機メーカーが次々と開発する端末は当時、間違いなく世界をリードしていた。だが、そこに落とし穴があった。iモードは日本国内で独自の進化を遂げ、海外展開で後手に回った。2007年、本当の事件が起きる。米アップルが「iPhone」を発売し、スマホ時代の幕が開いたのだ。iモード機にこだわったドコモは完全にスマホの威力を見誤り、最先端だった日本製の携帯はいつしか、絶海で閉ざされた生態系を持つガラパゴス諸島になぞらえ「ガラケー」と呼ばれるようになる。12年にドコモの社長に就任した加藤氏は翌年にiPhone導入を決めた。ソフトバンクに遅れること5年。不利な契約から不平等条約とも皮肉られ、NTTグループ内からも「ドコモはアップルの代理店に成り下がった」との批判も漏れた。加藤氏も「iモードの大成功が足かせになったのは否めない」と認める。そこで方向転換を打ち出す。スマホそのものではなくスマホの周辺で生まれる「生態系」を収益源に取り込み始めた。雑誌が読み放題の「dマガジン」や映像配信の「dTV」だ。16年に加藤氏はかつてショルダーホンの開発で苦楽をともにした吉沢氏に社長のバトンを託した。異業種と連携して生態系を育てる路線は同じ。吉沢氏は「パートナー企業のビジネス拡大がドコモの成長につながる」と話す。「スマートライフ領域」と呼ぶ生態系ビジネスの営業利益は17年3月期に初めて1000億円を超えた。それでもまだ利益全体の12%だ。自動運転、仮想現実(VR)、人工知能(AI)搭載ロボ――。吉沢氏は20年に実用化する次世代の携帯通信規格「5G」に向け、新事業のタネをまく。かつて自らの手で生み出した携帯ビジネスでの再挑戦が始まる。(企業報道部 杉本貴司)奥村善久コメント
軍用無線のブログ JA2GZU suzuki shinichi 今日は何の日 12月3日 昭和54年(1979年)世界で始めて 電電公社が自動車電話のサービスを開始(のちのスマートホン) 企業遺産 ドコモのショルダーホン 日航機事故で緊急登板NTTドコモが発足してから25年が過ぎた。携帯電話の原型となった「ショルダーホン」をNTTが世に送り出したのが、1985年の暑い夏。当時の傍流だった開発者たちの思いが詰まったケータイはその後、誰も予想できなかった普及曲線を描く。■超法規的措置で使用許可85年8月15日、NTTの無線技術者だった加藤薫氏(66、現ドコモ取締役相談役)は、戦後最悪とも言われる航空機事故の現場に向かった。3日前に日航ジャンボ機が墜落した御巣鷹山だ。草をかき分けて登山し、山の尾根に立つと真っ黒な煙が見えた。「ここから先には立ち入れません」。現場捜索に追われる警官に加藤氏が差し出したのが、開発したばかりのショルダーホンだった。加藤氏は自衛隊の関係者を呼んでもらい、その場でショルダーホンが家庭の電話機のように通話できることを実演した。ショルダーホンの重さは3キロで一度の充電で話せるのは40分だけ。大きめの弁当箱のような箱に電話機がくっついている。ストラップで肩からぶら下げて持ち歩くが、当然ながらズシリと重い。社内では「着脱式自動車電話」と呼ばれ、あくまで持ち運べる自動車電話という位置づけだった。それでも御巣鷹山の捜索で使われていた無線機より性能は高い。事前の性能評価では、山中に2つあった中継局を少なくとも1つにはできるという結果が出ていた。12台が捜索隊に提供され実際に使われた。実はショルダーホンの商用化は9月に予定していた。この時点で電波利用の免許は得ていなかったが、NTTは郵政省(現総務省)に超法規的措置の適用を申請。水戸市と宇都宮市の拠点から電波を送ってつながるようにした。加藤氏をリーダーに8人を事故現場に送り込んだ。ショルダーホンは予期せぬ緊急登板でデビューした。の6年前に日本電信電話公社(現NTT)に無線技術者として入社したのが、現ドコモ社長の吉沢和弘氏(62)だ。チューター役が加藤氏。2人ともショルダーホンの開発陣に名を連ねた。■ケータイつくった「無線屋」2人が次に目指したのが正真正銘の携帯だ。1年半後に完成したのが日本初の携帯「TZ-802型」だ。重さは約900グラム。当時としては画期的な小ささだった。最も苦労したのは電波を捉えるアンテナだった。本体から引き出せる形に行き着くだけで1年ほどかかった。NECや松下電器産業(現パナソニック)など他社の技術者も訪ね歩いた吉沢氏は「自分一人では何もできないということを学んだ」と話す。「無線屋」。固定電話の会社だったNTTで、加藤氏や吉沢氏は、半ば蔑みの意味を込めてこう呼ばれていた。完全な傍流だが、吉沢氏は「傍流だからこそ面白いことができる」と考えたと言う。92年にドコモの前身となるNTT移動通信網がNTT本体から分離される際に、吉沢氏は自ら手を挙げて参加した。加藤氏は94年に加わったが部下から冗談交じりに「左遷ですか」と言われた。当時はまだ携帯ではなく女子高生の間で人気だったポケベルでなんとかやりくりしていた。だが90年代後半になると携帯電話が一気に普及する。99年にはネットをケータイで使えるiモードが実用化され、ドコモが爆発的な成長を始めた。固定電話は97年を境に減少に転じ、かつての無線屋が主役に躍り出た。加藤氏は2012年にドコモ社長となり、16年には苦楽を共にした吉沢氏にバトンをつないだ。だが、2人の無線屋がトップとなった頃、ドコモは新たな試練にさらされる。米アップルがiPhoneで幕を開いたスマートフォン(スマホ)時代への挑戦だ。■iモードの成功が足かせにドコモはショルダーホンを源流に日本初の携帯電話を発売し、1990年代に携帯の王者となった。99年2月、その地位を盤石にするかに思えた新サービスを始めた。ネット接続サービス「iモード」だ。iモードはドコモの3人の社員が中心となって生まれた。その一人、元雑誌編集者の松永真理氏(62)は著書「iモード事件」で「IT革命なんてそんな大それたことは、はなから思ってもいなかった」と振り返るが、紛れもなく電話とネットが融合するモバイルインターネット時代の到来という「事件」だったその実力は当初から認識されていたわけではない。かつての無線屋、加藤氏が初めてiモードで読んだ電子メールは、3人衆の一人の榎啓一氏(68)から届いた。液晶の画面に小さく映る字に加藤氏は思わず言った。「榎さん、こんな字読めませんよ」加藤氏の予想を反してiモードは爆発的にヒットする。ライバルのKDDIも「EZweb」で追随する。両社の意向を受けて日本の電機メーカーが次々と開発する端末は当時、間違いなく世界をリードしていた。だが、そこに落とし穴があった。iモードは日本国内で独自の進化を遂げ、海外展開で後手に回った。2007年、本当の事件が起きる。米アップルが「iPhone」を発売し、スマホ時代の幕が開いたのだ。iモード機にこだわったドコモは完全にスマホの威力を見誤り、最先端だった日本製の携帯はいつしか、絶海で閉ざされた生態系を持つガラパゴス諸島になぞらえ「ガラケー」と呼ばれるようになる。12年にドコモの社長に就任した加藤氏は翌年にiPhone導入を決めた。ソフトバンクに遅れること5年。不利な契約から不平等条約とも皮肉られ、NTTグループ内からも「ドコモはアップルの代理店に成り下がった」との批判も漏れた。加藤氏も「iモードの大成功が足かせになったのは否めない」と認める。そこで方向転換を打ち出す。スマホそのものではなくスマホの周辺で生まれる「生態系」を収益源に取り込み始めた。雑誌が読み放題の「dマガジン」や映像配信の「dTV」だ。16年に加藤氏はかつてショルダーホンの開発で苦楽をともにした吉沢氏に社長のバトンを託した。異業種と連携して生態系を育てる路線は同じ。吉沢氏は「パートナー企業のビジネス拡大がドコモの成長につながる」と話す。「スマートライフ領域」と呼ぶ生態系ビジネスの営業利益は17年3月期に初めて1000億円を超えた。それでもまだ利益全体の12%だ。自動運転、仮想現実(VR)、人工知能(AI)搭載ロボ――。吉沢氏は20年に実用化する次世代の携帯通信規格「5G」に向け、新事業のタネをまく。かつて自らの手で生み出した携帯ビジネスでの再挑戦が始まる。(企業報道部 杉本貴司)奥村善久NTT語り部シリーズ「温故知新」③移動体通信研究者は語る60s NTT docomo CM ドコモ 携帯電話の歴史【現場から、】平成の記憶、「携帯電話」進化の30年次世代携帯電話に必要な技術「ヘテロ集積化」とは1987年 NTT CM携帯電話の歴史 平成と共に6分で振り返る (平成30年)携帯電話の歴史(ショルダーホンからiPhone 3Gまで【まったり・ゆっくり解説】【現場から、】平成の記憶、「携帯電話」進化の30年NTTドコモが25年間で発売した611機種を一覧できるムービー99年当時の最新携帯電話 近未来ケータイ予想携帯電話の進化の歴史を大まかに復習!携帯電話がたどってきた進化とは!?スマホの歴史【ゆっくり解説】1987-2000 ポケベル&携帯電話CM集 with Soikll5信じられない!驚くべき携帯電話進化の歴史 前編信じられない!驚くべき携帯電話進化の歴史 後編自動車電話(NTT技術史料館)無線電報から始まった移動体通信 & マイクロ無線装置今日は何の日 1968年( 昭和43年)7月1日電電公社が東京23区でポケットベルのサービスを開始電電公社非常災害用無線機 TZ-41 TZ-60 TZ-63 TZ-68 TZ-403 TS-102ポツンと一軒家 山原無線中継所・浜石無線中継所・高草無線中継所・静岡県無線漁協無線局 JFG・航空自衛隊御前崎分屯基地・妨害波被害の昔昔の話 800MHz帯 60MHz帯 400MHz帯 5GHz帯 150MHz帯連合軍(GHQ)通信 特別無線中継所 AN/TRC-1昭和29年 躍進する電気通信の施設(無線関係)「マイクロウェーブ通信を開拓する」-伝播試験マイクロ波方式の夜明け前津軽の塔~石崎無線中継所~建設記録映画(1978年) 日本電信電話公社正力構想 および 正力マイクロ波事件富士無線中継所(山頂)戦前~戦後 逓信省~郵政省~電電公社~NTT西日本 東京大空襲早期警戒(B29警戒)コメント