Images of 学士助手
- 4 -1-2 アカデミアが大衆に注目されるとき1-2-1 BranlyBranly 教授は自分の発見したコヒーラ現象がどのようなメカニズムで生じるのか、ついに解明することができなかった。彼は、生涯、彼の開発した検波器(電波導体:radio-conducteur)を無線通信に利用するための技術開発に興味を示さなかった。彼の検波器を使ってフランスで最初に無線通信の実験を行ったのは、キュリー夫人、レントゲンなどの要請に応じてソルボンヌで理化学機器を開発・生産していた Ducretet とその同僚の Roger だった。彼らの実験は 1895 年から 1897 年にかけて、パンテオンとエッフェル塔間で行われた。フランス政府は、Branly 教授を無線通信の発展に貢献したとして 1900 年にレジオンドヌール・シュヴァリエ勲章を授与し、顕彰した。この授賞理由となった「無線通信の発展に貢献」という視点が後に物議をかもすこととなる。彼自身は無線通信に必要な技術開発にはほとんど興味を示さず、無線電信器の開発に直接的な貢献をしていなかったからである。1-2-2 TurpainMarconi の無線電信通信実験に 2 年先立つ 1894 年にフランスで初めて無線電信通信実験を試みたと自称する Turpain 教授は、1880 年代にボルドーで教育を受け、電信局で勤務した経験を有するたたきあげの人物だった。ボルドー大学で 1891 年に数学学士号を授けられ、1894 年 11 月からボルドー大学物理学および数学の助手として採用されている。Turpain 教授は、1900 年のフランス政府による Branly 教授に対するレジオンドヌール・シュヴァリエ勲章の授与決定にまっこうから反対した。フランスで無線電信通信を最初に試みたのは自分であり、Branly 教授ではないと主張し、自らの書下ろし本から Branly教授の業績をすべて削除し、1917 年に新聞紙上で Branly 教授の実験研究は無線通信と無関係だとの記事を公表した 3)。Branly 教授は、その最晩年 1939 年に子供たちの進言を容れ、非難を続ける Turpain教授を名誉棄損で裁判所に訴えた。世に言う Branly 事件の始まりである。大衆紙をはじめ多くの新聞紙がこれをセンセーショナルに報道し、1951 年に破棄院で判決が確定するまでフランス中の関心を集めた 4)。1-2-3 電磁波理論に対する社会的理解の進展当時の学者とその組織(アカデミア)が、Maxwell の電磁波理論に対して示した反応は、とまどいとニュートン力学では解決できない新しい学問体系の模索だった。こうした認識は 1907 年の Poincaré の理論啓蒙書第 3 版の出版などを介して大衆に向かって説明され、より下位の教育機関で次世代に伝えられ、広く一般知識となっていった。しかし、Maxwell の示した電磁波方程式を直接書き下し、その本質を理解することは当時の高等教育を受けたエンジニアたちにとっても難しく、古典力学の振動理論を電磁波の説明にそのまま応用する「比喩的な」理解が一般化する。Ferrié (1899) 5)、POPP (1902) 6)、Graffigny (1905)7) などが書き表した論文、啓蒙図書などにおいても空気中を伝播する音波の原理と電磁波の空間伝播が同じ性質を有する波動として説明されている。このように、アカデミアの新思考の一般知への拡散は必ずしも数式の正確さを反映していなかった。当
ΟΤΑΝ Η ΚΑΙΝΟΤΟΜΙΑ ΓΙΝΕΤΑΙ ΕΡΓΑΛΕΙΟ ΚΑΘΗΜΕΡΙΝΗΣ ΔΟΥΛΕΙΑΣΣχεδίαση τραπεζιών σε POS & Android mobileΕΚΠΑΙΔΕΥΤΙΚΗ ΡΟΜΠΟΤΙΚΗ