Images of 小平忠正
衆議院議員(8期)、内閣総理大臣(第93代)、内閣官房副長官(細川内閣)、新党さきがけ代表幹事(第2代)、旧民主党代表(初代)、同幹事長(初代)、民主党代表(第2・7代)、民主党幹事長(第7代)などを歴任した。1986年の第38回衆議院議員総選挙で、自民党公認・田中派新人候補として、祖父の代からの地盤であった北海道旧4区から出馬した。鳩山事務所側は、「立候補の直接のきっかけは三枝三郎(福田派)の引退がきっかけ」と主張している 初の選挙スローガンは研究者の経歴をアピールした「政治を科学する」であった。得票数では同じ自民党の高橋辰夫(福田派)に次いで2番目の得票数で当選した。小選挙区になった1996年以降は、鳩山家が開拓した地域は鳩山の選挙区から外れた(中選挙区時代のライバルで民社党出身小平忠正が選出されている北海道10区内の栗山町)。なお、地方区分の選挙区自体は祖父と重複していないため、祖父の地盤を世襲していないと扱われた。弟・邦夫に遅れること10年での政界入りだったが、豊富な資金、祖父以来の人脈や名門出身の毛並みの良さに支えられ、短期間で頭角を現し、1990年代の政界再編期に、一躍中心的存在となっていく。1990年、第39回衆議院議員総選挙(旧北海道4区・自民党公認)で2期目当選。1991年北海道知事選挙で横路孝弘北海道知事への対抗馬に名前が挙がったが固辞した。1993年6月18日、政治改革を巡り自民党を離党。6月21日、武村正義らと新党さきがけを結成し、新党さきがけ代表幹事・事務局長に就任。第40回衆議院議員総選挙(旧北海道4区・さきがけ公認)で3期目当選後、非自民・非共産連立政権で成立した細川護熙内閣では内閣官房副長官(政務)に就任し、新党さきがけ代表の武村官房長官、代表代行の田中秀征首相特別補佐、日本新党代表幹事で、のちに、新党さきがけに移籍する荒井聰とともに細川内閣を支えた。第41回衆議院議員総選挙(北海道9区・旧民主党公認)で4期目当選。1997年、民主党幹事長就任。2003年、民由合併に尽力し第43回衆議院議員総選挙(北海道9区)で6期目当選。2005年9月11日投開票の第44回衆議院議員総選挙で7期目当選。しかしこの総選挙で民主党が敗北したことを受け岡田克也が代表を辞任すると、後継を争う代表選挙では、小沢一郎、菅直人らと後継代表の一本化を図るが、中堅、若手の代表格である前原誠司が立候補を表明したため水泡に帰した。17日発足の前原執行部で幹事長に就任。2005年、同志社大学客員教授。献金問題の追求が進展するなか同年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙にて、民主党は単独政党として史上最多の308議席を獲得。2009年9月16日、衆参両院の内閣総理大臣指名選挙で国民新党・社会民主党を連立与党として、第93代内閣総理大臣に就任。戦後の首相としては、初の理系学部出身で、国立大学出身の首相は、宮澤喜一以来16年振りであった。また、新制大学としての東京大学卒の総理大臣は史上初だった。なお理系出身首相には中央工学校卒業の田中角栄や水産講習所(現東京海洋大学)卒業の鈴木善幸がいる。政権は高支持率でスタートした。2009年の流行語大賞には「政権交代」が大賞に選ばれ、表彰式には代理の小川敏夫が出席した。2017年の第48回衆議院議員総選挙では民進党は事実上希望の党と立憲民主党に分裂した。鳩山の後継として北海道9区から出馬し、第46回、第47回と2回連続落選していた山岡達丸は希望の党の公認を得て比例復活にて当選を果たした。2010年1月15日に小沢一郎の資金管理団体「陸山会」土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で元秘書石川知裕民主党衆議院議員ら3名が逮捕された 翌16日、鳩山は記者会見で小沢に対し「(検察と)どうぞ戦ってください」と答え、野党やマスコミから批判された 一方で、ジャーナリストの高野孟や田原総一朗、衆議院議員の鈴木宗男は鳩山を擁護した 翌17日に鳩山は「検察を批判するとか、捜査に予断を与えるものでは一切ない」と釈明し、発言は「不適切だと思っていない」と明言した。同年2月12日の衆議院予算委員会において与謝野馨は、母親からの資金提供等は政治資金規正法違反でありうると糾弾した。2010年3月29日の勝場啓二被告の初公判で、被告が起訴事実を認め禁固2年を求刑されたことについて鳩山は「勝場君は私のためを思って働いてくれて、このようなことを犯してしまった 私という政治家がいなければ、こういう罪を犯さなくて済んだ」と語った。その上で、首相の責務を全うする考えを強調した。