Images of 河野勝
【広隆寺】
○(歴史)
推古天皇11年(603)、秦河勝(はたのかわかつ)(※1)が聖徳太子から仏像(半跏思惟像(はんかしいぞう))を贈られて、これを本尊として建立した山城国最古の寺院。日本最古の勅撰歴史書「日本書紀」にも記されており、広隆寺は聖徳太子ゆかりの日本七大寺(※2)の一つとして古くから有名な寺であった。当初、この寺は葛野郡九条河原(現西京極川勝寺付近)に建っていたが、延暦13年(794)の平安遷都の際に今の太秦(うずまき)(※3)の地に移されたのだという。その後、弘仁9年(818)に火災に遭い、また久安6年(1150)にも炎上。しかし多くの仏像も焼失することなく、そのたびに再建、復興されて現在に伝えられてきた。さて、この広隆寺を氏寺としてこの地に栄えた秦氏であるが、「日本書紀」によると、帰化したのは、応神天皇16年(4世紀末頃)で主に養蚕機織りを生業としていた。また、大陸や朝鮮半島の文明の導入にも尽力。日本文化の基礎を築いた。
(※1)
秦河勝(はたのかわかつ)(生没年不詳)
飛鳥時代の官吏。厩戸(うまやどの)皇子(聖徳太子)の側近。物部守屋(もののべのもりや)征討戦に軍政人として従軍。
(※2)
日本七大寺
奈良時代に栄えた七つの官寺(政教一致の国立寺院)として、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺がある。当時の貴族は長谷寺や熊野詣と共に七大寺へも巡拝した。
(※3)
太泰(うずまき)
うずまきと呼ぶのは雄略天皇15年に秦酒公(はたのさけのきみ)が絹を多く献上して、それがうず高く積まれたことによって「うずまき」という姓をを賜ったことによる。これを太泰と書くのは秦氏が関係しているとも考えられている。
○(鑑賞ポイント)
日本で最も古く、最も美しいとされている、この寺の半跏思惟像は絶対に見ておきたい仏像。どんな言葉をも無視し、どんな言葉も届かないところで永遠の笑みを浮かべ続けているというこの像は、まさにどんなことでも許してくれるような神秘的な微笑みで見る人を魅了する。高さ124(cm)の木像で、赤松を材料として飛鳥時代に作られた弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)と伝えられている。細い目にはっきりとした眉、そしてすっきりと通った鼻筋はきれいに整っていてなかなかの美形。日本の仏教美術を代表する素晴らしい仏像である。