Images of 沼津方式

◆沼津ヒラキ物語⑦「干物加工と伝統技術」その 2 加藤雅功前回沼津におけるヒラキ加工について、ヒラキ(開き干し)の魚種ではサバやムロアジが先行し、やがて先進地の「小田原方式」の導入でマアジが中心となることを触れた。相模湾産のマアジは小粒だが、それを開いた干物は小田原を代表し、沼津よりもアジのヒラキに関してはその起源が古い。大正12(1923)年の関東大震災を機に、本(ほん)小田原町付近で鮮魚や塩干し魚を荷揚げした魚河岸(うおがし)(魚市)は日本橋から築地へと移転するが、すでに旧南小田原町(現築地 6・7 丁目)の町屋が幕末には成立していた。聖路加(せいろか)国際病院周辺(旧築地居留地)は空襲に遭わず、南小田原町でのアジのヒラキ干場を以前(②の稿)に写真で紹介した。一方、地元の沼津では駿河湾産や近海物を扱い、古くから小田原などよりも多種の原料となる魚(原魚) (げんぎよ)を扱い、戦国期末には「ひ物」という言葉が初出(しょしゆつ)し、同じく江戸中期の沼津の古文書に「ひらき物」が初出する。幕末には「開乾(ひらきぼし)」の記録があり、すでにヒラキ(開き干し)の加工が進んでいたことを知る。明治中期には駿河湾奥の「内浦湾」沿岸の沼津と周辺で、サバやムロアジなどを中心として「開乾」が生産され、東京市場や甲信方面に販路を広げていた。初期は地元漁師の自家消費用で「開き」が現れて普及する。やがてアジの場合、本格的な保存食品としての商品製造が下河原(しもがわら)の入町(いりちょう)で始まり、それは大正 8(1919)年頃である。大正 10(1921)年には北寄りの宮町の魚河岸に、魚市場の「大十」が組織替えをして開設され、原魚が安定的に入荷できるようになり、東京市場へ沼津のアジのヒラキが出荷されることとなった。●沼津方式のダンベ・イケフネ 「塩汁(しょしる)」は水と塩だけの成分で、元は塩水だけだが、魚を漬ける度に塩を継ぎ足し続けることで、徐々に魚の旨味(うまみ)が溶け出して調味液となり、味に深みが増す「美味(おい)しい塩水」となる。赤褐色の塩汁は「10 年以上継ぎ足して使用が可能」だが、微生物の発酵を維持しつつ凝固・沈殿や漉(こ)す処理を必要とする。各商店にとって、これが製品の良し悪(あ)しを決めるため、「塩汁こそが命」になる。ここで塩潰けの方法を紹介する。塩干(しおぼし)の際には塩度(えんど)18~19 度(18~19%)の塩水に漬ける。魚の大小や脂肪の多い少ないかによって、波ける時間等が勘案(かんあん)されて塩度も増減する。この塩水演けを「立て塩」と呼びならわしている。塩を水に溶かすこと、また溶かした水をも立(た)て塩(しお)(たてじお)と言う。塩水に潰けられた数多い一枚一枚、あるいは一尾(いちび)一尾が同じような塩の浸透でなければならないので、古くから製造業者は加工技術に知恵を出し合い、時には秘密裏にして、そこで様々な工夫が成されてきた。この種々の工夫がされて、塩水(塩汁)で出来上がったものが「立て塩の干物」と呼ばれる。開いた魚の水洗い(血出し・血抜き)は絶対に必要であるが、その後並べられた魚の上に直接塩を振りかけ、さらに魚を並べてま