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京都の春夏秋冬とプラスα

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淀藩 シリーズ藩物語 / 常松隆嗣 【本】

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お城解説「日本全国」1300情報【城旅人】

お城解説「日本全国」1300情報【城旅人】

2021年3月1日(月)12時15分過ぎ、淀緑地の河津桜を満喫して、北東端の東口から淀城址に向かう。東北東に向かう道の北側に広がるのは道路から中は見えないが京都競馬場(淀競馬場)。春の天皇賞や菊花賞などのGIレースが開催される日本でも有数の競馬場。1925年(大正14年)に開設されたが、それ以前は北側の旧宇治川と南から西側の巨椋池排水路に挟まれた沼地だった。2020年2月から2025年の開場100周年に向けて大規模な改造工事を行っており、現在は使われていないが、京阪淀駅のホームからトラックを望むことが出来る(下の写真1)。また、道の反対側に京都市立大淀中学校があるが、戦後すぐの1947年に開校した淀中学が前身で、1975年に久御山町立久御山中学校が分離されて大淀中学となるまでは、京都市伏見区と久御山町の両方の生徒が通っていた。現在も八幡市の飛び地も校区に含んでいる。1975年生まれ、東山高校でセンバツに2回出場し、巨人に入団。抑えやセットアッパーで活躍し、その後MLBのボストン・レッドソックスでも5年間活躍し、ワールドシリーズ優勝も経験した岡島秀樹投手は、この中学の卒業生。10分余り東北東に進むと京阪本線の高架があるが、高架の下に古そうな石の道標が建っている(下の写真2)。2011年に高架化されるまではこの道標の南側に淀駅があった(現在の高架駅より南300m)。この道標は1928年(昭和3年)に三宅安兵衛の遺志に基づいて建てられたもので、その淀駅から久御山町東一口(いもあらい)にある安養寺への道筋を示している。道標はこの他にも大淀中学の校内と宇治川対岸の久御山町西一口、そして安養寺前にある。三宅安兵衛は福井県の小浜生まれの幕末・明治時代の京都の豪商。晩年は隠居し、還暦後は京都周辺の名所旧跡を遊覧することを楽しみとしたそうで、京都のために資産を使えと云い残し1920年(大正9年)に満78歳で亡くなる。長男の清治郎がその遺志に基づき京都の名所旧跡に標石を設置した。 京都市内だけでなく山城南部の八幡市、宇治市、京田辺市、木津川市、精華町、井手町にかけて、1930年(昭和5年)までに400余基が建碑された。高架を抜けると西側にあるのが淀城跡公園。1968年(昭和43年)に本丸や石垣を利用して開園した公園。ただし、天守などは1871年(明治4年)の廃藩置県で淀藩は廃藩となり、淀城も廃城となり、現在は城郭に伴う再建造物もない。淀と云うと、秀吉の側室の淀殿を思いつく人もいるだろう。確かに淀殿は1589年に秀吉が淀城を与え産所としたことから呼ばれるようになったのだが、この淀城は現在は淀古城と呼ばれ、この城跡公園から北へ約500m、当時はその間を流れていた宇治川の対岸(北側)にあった。この淀古城で淀殿は二人の息子を産んだが、その後1595年に秀吉と養子の甥の秀次が不仲となり、秀次は切腹、この淀古城の城主の木村重茲も連座となり、城は廃城となり、伏見城に流用された。淀古城の跡は現在は何も残っていない。淀城跡公園にあった淀城は、それより後、江戸時代に入った1625年に2代将軍徳川秀忠の命で淀藩へ入部した松平定綱が築城した城。廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築し築かれたと伝えらる。淀古城で使われたものが伏見城経由で再利用されたかもしれない。完成の翌年の1626年には秀忠が、さらにその息子の家光も淀城の縄張りを調べに来城した。淀城跡公園となっているのは本丸部分で、三川合流地の中州を干拓し、淀三町と呼ばれる城下町を形成している。縄張りは本丸と二の丸を中心とした「回」字形に、三の丸、西の丸、東外には巨大な馬出形状をした東曲輪が配されていた近世城郭。北の納所(のうそ)地区と南西の美豆(みず)地区とは、淀小橋・淀大橋でつながれ、城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城であった。城下町を貫通する形で京街道が設定され、淀城大手門はこの京街道に面して設置された。淀城はこの中州の西部を指すが、中州自体が大きな水堀であり、古代中国の都城のような構造を持っていた。この城の特徴として、城の西と北側に直径九間(約16m)の大型水車が2基設けられていた。二の丸の居間や西の丸の園池に水を取り入れていたのに使用されていたと思われる。築城当時は、木津川は本丸に近い部分に北流していたが、3代城主永井尚政の時代の寛永年間の1637年から1639年に掛けて、城下町の拡張と侍屋敷の造営を行い、木津川の流れを南に移動させた。江戸中期の享保8年(1723年)に10代城主として稲葉正知が入城、以後幕末まで稲葉氏が城主を務めた。宝暦6年(1756年)に落雷により天守や建物の大半が焼失、以後天守や本丸御殿は再建されなかった。幕末1968年の戊辰戦争の折り、1月3日の鳥羽・伏見の戦いの後、5日に淀千両松の戦い(現在の京都競馬場の北)で敗れた幕府軍は淀小橋を渡って淀に入り、淀城に籠って戦況の立て直しを図ろうとしたが、当時、21代城主で幕府老中の稲葉正邦は江戸におり不在で、朝廷や官軍と戦いたくない家臣は入城を拒否。幕府軍はやむなく淀大橋を渡って男山方面に撤退した。淀城は大坂城などとともに西国に睨みを利かすために築城されたが、結果的に官軍の勝利に一役買うことになったのは何という皮肉。なお、この時の兵火で淀城の城下町と城内の一部は焼亡した。また、この戦いで、新選組の古参の隊長であった井上源三郎ら隊士7名が戦死した。その3年後に淀藩は廃藩となり、淀城は廃城となった。ところで、この淀と云う地名だが、この辺りが古くから三川が合流した巨椋池の唯一の流出口で水のよどむ低湿地帯だったことから「澱む」が淀に転じた。別の記に書いたが、宇治川の流れを巨椋池と分けたのは秀吉で、それ以前はここは三川合流点ではなく、宇治川、木津川、桂川は、それぞれ池の西、南西、南東で流れ込み、この辺りから流れ出していた。平安京の頃からこの辺りは南西日本における最も重要な水陸交通の要地として繁栄し、与等津(淀津)と呼ばれていた。ここから下流を淀川と呼ぶのも、淀から流れて来る川と云う意味で、古くは近江川、山城川、山崎川、取替川、鵜河と云う記述も残るが、平安時代の古今和歌集や日本紀略にすでに淀川や淀河の記述がある。一般的になったのは江戸期に入ってからではと云われている。淀城跡公園に入るが、続く

2021年3月1日(月)12時15分過ぎ、淀緑地の河津桜を満喫して、北東端の東口から淀城址に向かう。東北東に向かう道の北側に広がるのは道路から中は見えないが京都競馬場(淀競馬場)。春の天皇賞や菊花賞などのGIレースが開催される日本でも有数の競馬場。1925年(大正14年)に開設されたが、それ以前は北側の旧宇治川と南から西側の巨椋池排水路に挟まれた沼地だった。2020年2月から2025年の開場100周年に向けて大規模な改造工事を行っており、現在は使われていないが、京阪淀駅のホームからトラックを望むことが出来る(下の写真1)。

また、道の反対側に京都市立大淀中学校があるが、戦後すぐの1947年に開校した淀中学が前身で、1975年に久御山町立久御山中学校が分離されて大淀中学となるまでは、京都市伏見区と久御山町の両方の生徒が通っていた。現在も八幡市の飛び地も校区に含んでいる。1975年生まれ、東山高校でセンバツに2回出場し、巨人に入団。抑えやセットアッパーで活躍し、その後MLBのボストン・レッドソックスでも5年間活躍し、ワールドシリーズ優勝も経験した岡島秀樹投手は、この中学の卒業生。

10分余り東北東に進むと京阪本線の高架があるが、高架の下に古そうな石の道標が建っている(下の写真2)。2011年に高架化されるまではこの道標の南側に淀駅があった(現在の高架駅より南300m)。この道標は1928年(昭和3年)に三宅安兵衛の遺志に基づいて建てられたもので、その淀駅から久御山町東一口(いもあらい)にある安養寺への道筋を示している。道標はこの他にも大淀中学の校内と宇治川対岸の久御山町西一口、そして安養寺前にある。

三宅安兵衛は福井県の小浜生まれの幕末・明治時代の京都の豪商。晩年は隠居し、還暦後は京都周辺の名所旧跡を遊覧することを楽しみとしたそうで、京都のために資産を使えと云い残し1920年(大正9年)に満78歳で亡くなる。長男の清治郎がその遺志に基づき京都の名所旧跡に標石を設置した。 京都市内だけでなく山城南部の八幡市、宇治市、京田辺市、木津川市、精華町、井手町にかけて、1930年(昭和5年)までに400余基が建碑された。

高架を抜けると西側にあるのが淀城跡公園。1968年(昭和43年)に本丸や石垣を利用して開園した公園。ただし、天守などは1871年(明治4年)の廃藩置県で淀藩は廃藩となり、淀城も廃城となり、現在は城郭に伴う再建造物もない。

淀と云うと、秀吉の側室の淀殿を思いつく人もいるだろう。確かに淀殿は1589年に秀吉が淀城を与え産所としたことから呼ばれるようになったのだが、この淀城は現在は淀古城と呼ばれ、この城跡公園から北へ約500m、当時はその間を流れていた宇治川の対岸(北側)にあった。この淀古城で淀殿は二人の息子を産んだが、その後1595年に秀吉と養子の甥の秀次が不仲となり、秀次は切腹、この淀古城の城主の木村重茲も連座となり、城は廃城となり、伏見城に流用された。淀古城の跡は現在は何も残っていない。

淀城跡公園にあった淀城は、それより後、江戸時代に入った1625年に2代将軍徳川秀忠の命で淀藩へ入部した松平定綱が築城した城。廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築し築かれたと伝えらる。淀古城で使われたものが伏見城経由で再利用されたかもしれない。完成の翌年の1626年には秀忠が、さらにその息子の家光も淀城の縄張りを調べに来城した。

淀城跡公園となっているのは本丸部分で、三川合流地の中州を干拓し、淀三町と呼ばれる城下町を形成している。縄張りは本丸と二の丸を中心とした「回」字形に、三の丸、西の丸、東外には巨大な馬出形状をした東曲輪が配されていた近世城郭。

北の納所(のうそ)地区と南西の美豆(みず)地区とは、淀小橋・淀大橋でつながれ、城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城であった。城下町を貫通する形で京街道が設定され、淀城大手門はこの京街道に面して設置された。淀城はこの中州の西部を指すが、中州自体が大きな水堀であり、古代中国の都城のような構造を持っていた。

この城の特徴として、城の西と北側に直径九間(約16m)の大型水車が2基設けられていた。二の丸の居間や西の丸の園池に水を取り入れていたのに使用されていたと思われる。

築城当時は、木津川は本丸に近い部分に北流していたが、3代城主永井尚政の時代の寛永年間の1637年から1639年に掛けて、城下町の拡張と侍屋敷の造営を行い、木津川の流れを南に移動させた。

江戸中期の享保8年(1723年)に10代城主として稲葉正知が入城、以後幕末まで稲葉氏が城主を務めた。宝暦6年(1756年)に落雷により天守や建物の大半が焼失、以後天守や本丸御殿は再建されなかった。

幕末1968年の戊辰戦争の折り、1月3日の鳥羽・伏見の戦いの後、5日に淀千両松の戦い(現在の京都競馬場の北)で敗れた幕府軍は淀小橋を渡って淀に入り、淀城に籠って戦況の立て直しを図ろうとしたが、当時、21代城主で幕府老中の稲葉正邦は江戸におり不在で、朝廷や官軍と戦いたくない家臣は入城を拒否。幕府軍はやむなく淀大橋を渡って男山方面に撤退した。

淀城は大坂城などとともに西国に睨みを利かすために築城されたが、結果的に官軍の勝利に一役買うことになったのは何という皮肉。なお、この時の兵火で淀城の城下町と城内の一部は焼亡した。また、この戦いで、新選組の古参の隊長であった井上源三郎ら隊士7名が戦死した。その3年後に淀藩は廃藩となり、淀城は廃城となった。

ところで、この淀と云う地名だが、この辺りが古くから三川が合流した巨椋池の唯一の流出口で水のよどむ低湿地帯だったことから「澱む」が淀に転じた。別の記に書いたが、宇治川の流れを巨椋池と分けたのは秀吉で、それ以前はここは三川合流点ではなく、宇治川、木津川、桂川は、それぞれ池の西、南西、南東で流れ込み、この辺りから流れ出していた。平安京の頃からこの辺りは南西日本における最も重要な水陸交通の要地として繁栄し、与等津(淀津)と呼ばれていた。

ここから下流を淀川と呼ぶのも、淀から流れて来る川と云う意味で、古くは近江川、山城川、山崎川、取替川、鵜河と云う記述も残るが、平安時代の古今和歌集や日本紀略にすでに淀川や淀河の記述がある。一般的になったのは江戸期に入ってからではと云われている。


淀城跡公園に入るが、続く

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