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巨人軍4番出場試合数2位(川上哲治に次ぐ)。そんな中、読売ジャイアンツ(巨人)が長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手 になり、長嶋は南海から一転、巨人への入団を決め、11月20日に契約した 背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」に決まった 当初、川上哲治から「15」を勧められたが辞退している 川上が勧めた理由は、「14」は沢村栄治、「16」は川上であるから、長嶋が「15」を付ければ「14」「15」「16」と3つ連続で永久欠番になるだろうと言う思いからだった 長嶋が辞退した理由は「恐れ多い」とも「一桁がよかった」からだとも言われている。デビュー2日後の4月7日、国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放ち、8月6日の対広島戦から、巨人の中心打者であった川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。1月20日、巨人軍13代目のキャプテンに就任。5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。35歳での首位打者獲得は、当時川上哲治と並ぶNPB最年長記録だった(誕生日の関係で厳密には長嶋の方が上回る。1979年に大洋のフェリックス・ミヤーンが更新)。34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。シーズンオフの12月27日に翌シーズンよりコーチを兼任することが発表された。5度目のセ・リーグMVPを受賞。野球マスコミやファンの間では、栄光のV9時代を懐かしみ、前監督の川上哲治の待望論が徐々に出るようになっていった。実際に川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋のチーム作りに干渉(前述の1976年オフの柴田のトレード失敗など)するようになり、また、1976年オフに山ごもりのパートナーでもあり、自らが監督になる際にコーチに抜擢した淡河弘を原辰徳のドラフト騒動の時に失い(原の家に長嶋の密書を持っていったという理由で解任された)、1979年オフには前述の騒動で青田昇を失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、フロントが11人のコーチ(福田昌久・須藤豊・関根・宮田・淡河・中村稔・瀧安治・黒江・国松・町田行彦・鈴木章介)を解任にした。黒江は1978年に退任しているが長嶋から「片腕としてよくやってくれたけど、球団の考えなんだ 申し訳ないが辞めてくれ」と言われ、黒江は涙ながらに長嶋に「片腕の黒江を切るなら私も辞めますと、なぜ言ってくれなかったのですか」と言ったという。1990年の川上哲治との和解、1991年の務臺光雄の死去、渡邉恒雄の読売新聞社社長就任など、長嶋の監督再就任への道筋が徐々に出来上がり、1992年オフに報知新聞社客員を辞任し、1992年10月12日に第13代監督として復帰会見を行う。新背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)。コーチ陣はヘッドコーチの須藤豊をはじめ、中畑清・山倉和博など気心の知れた人を起用した。同年11月21日のドラフト会議において、星稜高等学校の松井秀喜を引き当てた。長嶋の監督復帰は翌年に発足を控えたJリーグへの対策という意味もあった。極端とも言えるアウトステップが特徴だった。長嶋の踏み出しでのアウトステップは、スイングの悪癖の例として解説者に批判されたこともあり、相手チームの守備陣から「顔の方向とまったく関係なく打球が飛ぶから守りにくい」と評されたこともあったという 一方で腰と肩は開かずヘッドを高い位置に保ち、球を引き付けて左膝もギリギリまで踏ん張っていたため、アウトステップしながらも球を強くたたくことができた これについて川上哲治は「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム 長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評しており、少年野球教室などでは「あの打ち方は長嶋だからできるもの 真似してはいけない」と諭していた この点は金田正一も触れており、「シゲシゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最後の瞬間まで油断できなかった 凄い迫力だった」と語っている。