Images of 瑞祥地名
2021年8月15日(日)5時半、ホテルチェックインを済ませて、高岡観光開始。高岡市は富山県北西部にある富山市に次ぐ県内第2の都市で、呉西(富山県の東西の真ん中の富山市にある呉羽山から西)の中心都市。人口約16万人は富山市の約41万人に次ぐ。
北西部は山地になっているが、あとは射水平野と砺波平野に広がっており、庄川と小矢部川が富山湾に注いでいる。小矢部川左岸の北部は短く富山湾に接しおり、日本の渚百選にも選ばれる雨晴海岸がある。面積約2万平方㎞は県内15自治体でちょうど真ん中の8位。
7世紀末、越中国が成立し、小矢部川左岸河口近くの伏木に国府が置かれる。現在の高岡市中心部が開かれたのは江戸時代になって1609年に加賀藩主の前田利長が高岡城に入ってから。1615年の一国一城令により高岡城は無くなり、「城の無い城下町は衰退していく」と云われていたが、前田利常の政策が功を奏し商工業都市として発展した。
明治に入り1889年(明治22年)、日本初の市の1つとして高岡市が誕生。当時の高岡市は面積2.04平方km、人口3万人弱、世帯数7,086戸で、同時に市制施行した全国31市の中で最小だった。現在の高岡市は2005年に隣接する福岡町と共に新「高岡市」として発足したもの。
高岡は中国最古の詩篇「詩経」の一節「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)」に由来し、前田利長が築城に際して名付けた。めでたい意味の言葉をそのまま使ったり、良い意味の言葉から創作された瑞祥地名。それまでこの一帯は関野または志貴野と呼ばれおり、今も関野神社や志貴野高校などに名前が残る。
前田利常時代から始まった梵鐘や仏具などの銅器製造(高岡銅器)や高岡漆器、高岡仏壇が有名。安価な水力発電の利用によりアルミ製品の生産が発展し、現在でもアルミ建材の出荷は多額で、三協立山の本社がある。隣の砺波市で創業された大手運輸会社の一つ、トナミ運輸の本社もある
高岡市関係の有名人は多い。読売新聞の正力松太郎氏は射水市出身だが旧制の高岡中学卒業。藤子・F・不二雄氏は高岡工芸高校卒。相方(?)の藤子不二雄A氏は国民学校の同級生で高岡高校卒。こないだ見た「バッテリー」などの映画監督の滝田洋二郎氏は高岡商業高校OB。この方も私とタメなんだ。初めて知った。1980年代中頃に京大の甲子園ボウル獲得の原動力となった東海辰弥元選手は高岡高校の野球部だった。リオ五輪で金の女子レスリング、登坂絵莉元選手は高岡の南星中学から名古屋の至学館高校に進学。
藤子不二雄Aの「まんが道」は高岡市内の小学校に転校して来た満賀道雄が、才野茂と出会うところから始まる。井上陽水の大ヒット曲が主題歌だった1990年の篠田正浩監督作品「少年時代」は高岡市でもロケされている。また、アニメ映画版の「君の膵臓をたべたい」(2018年)は高岡市が舞台。
高岡市の観光地としては国宝の仏殿などがある瑞龍寺がホテルからは近いのだが、時間が時間なのでここは諦めて駅の北にある高岡大仏へ。奈良・鎌倉の大仏と並ぶ日本三大仏とも称される大佛寺にある銅製阿弥陀如来坐像。小杉・庄川の大仏と共に越中三大仏の一つにも数えられる。
大佛寺は浄土宗の寺院で、山号は鳳徳山。創建年や開基については不詳だが、高岡大仏が最初に建立された1221年前後には既に大仏を祀る寺院が存在したか、高岡大仏が現在の位置に移転した1609年前後に創建されたと考えられている。度重なる火災で一時は荒廃していたが、江戸中期の1745年に中興された。
現在の大仏は3代目としている記述も見られるが4代目と思われる。初代は鎌倉時代の1221年に、後鳥羽上皇が起こした承久の乱を避けて越中に入道した源義勝が氷見との間にある二上山の麓に約5mの木造大仏を建立したもので、1609年に築城した前田利長によって城下に移転されたが、その後焼失。2代目は江戸中期の1745年に極楽寺住職第15世等誉上人によりその倍の高さのものが造られたが1821年に焼失。3代目はそれから20年後の1841年、極楽寺住職第26世謙誉上人が発願し高さ5mほどのものが造られたが、1900年の高岡大火で焼失。
現在の大仏の開眼供養が行われたのは1933年(昭和8年)。高さ15.85m、座高7.43mで、63tの青銅を使用して造られた露座の大仏は、大佛寺の本尊で、銅器の町として知られる高岡の技術の粋を尽くして製作され、高岡のシンボルともなっている。なお、1980年に補修され位置が11m後ろに移動した。高岡市指定有形文化財に指定されている。
開眼供養直後に夫の鉄幹と共に高岡を訪ねた与謝野晶子がこの大仏を見て「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとも伝わる端正な顔立ちの大仏。台座の内部には回廊があり地獄変・極楽変の絵画が展示されていて、中央の部屋には3代目の焼失した木造大仏の頭部が鎮座している。6時まで拝観だったのでお参りすることが出来た。ギリギリだった。
表参道の両側に並ぶ仁王像は1968年に造立されたもの。大仏右手に顕彰碑と並ぶ観音像は交通安全を祈願したもの(下の写真1)。その反対側、寺務所(下の写真2)の前に石仏の中には「高岡新西国三十三観音札所」の二十九番札所「馬頭観世音菩薩」の石仏もある(下の写真3)。
その手前の時鐘は江戸後期の1806年に完成したもので、以来、大火による数度の移転を経て、ここ大仏寺に寄付された。そもそも時鐘は、まだ時計が普及していない江戸時代に於いて、時を知らせるもので、初代の時鐘は1804年から使われていたが、すぐに割れが生じて改鋳に迫られた。そこで、高岡鋳物の誇り高い価値を守るために町人達が寄進し、2年後に新しいものを造ったもので、さすが高岡鋳物、完成から200年以上を経過した今も尚、毎日朝と夕方の6時の2回その勤めを果たしている。これも高岡市指定有形文化財に指定されている。
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隣りの高岡古城公園へ向かうが、続く。