Images of 男と女のはしご酒
武田 鉄矢(たけだ てつや、1949年〈昭和24年〉4月11日 - )は、日本の俳優、歌手、タレント、司会者、作詞家。フォークグループ・海援隊のボーカル・リーダー。自身が出演する映画・ドラマの脚本を片山蒼の名義で執筆することもある。代表曲に「母に捧げるバラード」、「あんたが大将」、「人として」、「贈る言葉」、「思えば遠くへ来たもんだ」(いずれも海援隊)などがある。1972年(昭和47年)10月25日に、千葉和臣・中牟田俊男らと海援隊でデビュー。当初は全く売れなかったが、武田が母・イクに向けた詫び状を歌にした「母に捧げるバラード」(1973年(昭和48年))がヒットし、翌年の第25回NHK紅白歌合戦に出場 しかし、その翌年には、夫婦揃って大晦日の夜に皿洗いのバイトをしなければならないほど、人気が低迷したと言い、テレビから流れるNHK紅白歌合戦を横目で見て、「俺はこんな所で何をやっているんだろう」と落ち込んでいたと後年語っている。映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977年(昭和52年))でのさえない青年役が高い評価を得て、俳優としての新境地を開拓 海援隊としても再び注目され、ドラマ『3年B組金八先生』(1979年(昭和54年))のヒットとともに主題歌の「贈る言葉」も大ヒットした 1982年(昭和57年)12月の海援隊解散後は、ソロ歌手・俳優・作家として活動 歌手活動としては、「男と女のはしご酒」(芦川よしみとのデュエット)(1987年(昭和62年))、「声援」(『3年B組金八先生』第3シリーズ主題歌)(1988年)などのヒット曲がある 海援隊は1993年(平成5年)4月10日の「ドリームライブ in 福岡ドーム」のために1日だけ再結成され、翌1994年(平成6年)に本格的にグループとしての活動を再開し、現在に至る。海援隊の楽曲『節子への手紙』は、武田鉄矢の妻・節子へ届いた、彼女の母親からの手紙にモチーフを得たもの。別項にあるように坂本龍馬を敬愛しているため、武田は龍馬が亡くなった年齢(33歳)と同じになった年(1982年)に海援隊を解散(後に再結成)した。ただし、龍馬の「33歳」が数え年であったのに対し、武田の「33歳」は満年齢である(龍馬は満31歳だった)。映画『ドラえもん』の第1作目 - 第17作目(第5作目を除く)のエンディングテーマ曲の作詞を務めた 第6作,11作,第13作,第15作,第16作目は武田が歌っている 『ドラえもん のび太と銀河超特急』も海援隊が歌を担当しているがこの作品のみ千葉和臣、中牟田俊男が歌っている 西田敏行が歌唱した『ドラえもん のび太の日本誕生』の主題歌「時の旅人」は後にアルバム『昭和24年 〜いつか見た青い空〜』でセルフカバー かねてより原作者の藤子・F・不二雄を尊敬していたが、藤子の逝去に伴って「藤子先生が亡くなった今、僕は『ドラえもん』の映画の作詞を引退します」と宣言し、同劇場版シリーズの楽曲参加を勇退した その後、映画『ドラえもん』30周年を記念し、2010年(平成22年)の劇場版『ドラえもん のび太の人魚大海戦』で14年ぶりに挿入歌を手掛けた。高校時代に読んだ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響からバンド名に「海援隊」と名付けるほど、坂本龍馬を敬愛しており、龍馬役や龍馬に関連する人物の役をすることがある 金八先生の名字の「坂本」は龍馬の姓に、金八の娘の「乙女」は龍馬の姉の名にちなんだものである また、ソフトバンクモバイルのCMでは「坂本龍馬かぶれ」と揶揄される内容で出演 なお、「高校時代に最初に買った本はかなりボロボロになっていますが、大事に持っています 」とのこと さらには、『刑事物語』シリーズの『刑事物語 くろしおの詩』で、桂浜の坂本龍馬像に語りかけ、敬礼をするシーンもある。