Images of 石井連藏
長きにわたり巨人の4番打者として活躍。その闘志あふれるプレイ、チャンスや大舞台における無類の勝負強さで多くの国民を熱狂させた。同時代に活躍した王貞治とはともに「ON砲」として称され、2人のバッティングは巨人のV9に貢献した。日本のプロ野球において400本塁打・2000安打の同時達成は大卒では史上初である。NPB最多記録となる最多安打を10回獲得、セ・リーグ最多記録となる首位打者を6回獲得した。砂押の退任後、長嶋は辻猛の下で同期の杉浦忠投手、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ、東京六大学野球において、1956年の春季リーグ戦と1957年の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せた また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる 1957年には六大学リーグの通算新記録となる8本塁打を放った 1955年には第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学野球リーグ選抜チーム)に選出された リーグ通算96試合に出場し、打率.286(304打数87安打)、8本塁打、39打点、22盗塁 打撃に加えて守備や俊足も野球関係者から高い評価を受け、石井連藏は大学時代の長嶋の守備について「早稲田も頑張って、ずいぶん三遊間にヒット性の打球を打ちましたが、ほとんど長嶋に捕られましたね 彼の守備範囲は普通の人の二倍くらいあったんじゃないでしょうか。しかも守備範囲が荒れていない」と評している。最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。また、二塁打(34)もリーグ最多であったが、三塁打は田宮謙次郎に1本及ばず8本に終わり、「二塁打・三塁打・本塁打のすべてでリーグ最多」という大記録を逃した(その後も達成者はなし)。2年目となった同年シーズンは、シーズン途中まで、パリーグの葛城とともに3冠ペースだったが、終盤に本塁打と打点が伸びなかった。2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。引退した1974年を除くと自己最少の16本塁打、64打点ながら打率.334で2年連続の首位打者を獲り、4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録。打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者、初のセ・リーグMVPを獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。同年の35敬遠は当時の日本記録。打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。同年から、長嶋と王貞治(本塁打王と打点王のタイトルを獲得)が巨人の中軸打者(多くは3番王・4番長嶋、両者のコンディションの違いにより打順入れ替えがあった)として永らく活躍するようになり、MM砲(ニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルとロジャー・マリス)になぞらえてON砲との呼称が定着した。打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。2年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献し、2度目のセ・リーグMVPを受賞。打率.344で5度目の首位打者を獲得。26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。3度目のセ・リーグMVPを受賞。秋には、日米野球で来日したドジャースのオマリー会長が「長嶋を譲って欲しい 2年間でいい」と正力松太郎社主に打診したが、「長嶋がいなくなると、日本の野球は10年おくれる」と断ったため、メジャー移籍は実現しなかった。1月20日、巨人軍13代目のキャプテンに就任。5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。35歳での首位打者獲得は、当時川上哲治と並ぶNPB最年長記録だった(誕生日の関係で厳密には長嶋の方が上回る。1979年に大洋のフェリックス・ミヤーンが更新)。34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。シーズンオフの12月27日に翌シーズンよりコーチを兼任することが発表された。5度目のセ・リーグMVPを受賞。首位打者を獲得したシーズンはいずれも安打数でもリーグトップだった。シーズン最多安打10回はプロ野球記録(6年連続を含むが、これもプロ野球記録)。また、6回の首位打者のうち最も2位との差が小さかったのは1963年・古葉毅との2厘差で、それ以外の5回は全て1分5厘以上の差をつけての文句なしの首位打者だった。6回の首位打者のうち2回(1959年・1971年)は長嶋がセ・リーグ唯一の3割打者である。首位打者:6回(1959年 - 1961年、1963年、1966年、1971年)※6回は右打者記録、セ・リーグ記録。3年連続は右打者タイ記録、セ・リーグタイ記録。1952年は最高打撃賞、1953年から1963年は首位打者賞、1964年から1979年は打撃賞。1979年限りで廃止。