Images of 羽賀準一
1962年7月1日の対三原脩率いる大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー (15・16回戦、川崎球場) は、前日夜半から当日昼までの降雨の影響等により試合開始が30分遅れた。前夜の試合 (14回戦) では22歳の王を3番打者に起用したが2打数2三振1四球に終わり、チームも中2日の左腕鈴木隆に抑えられて安打は須藤豊のテキサスヒット1本のみ、四球は2つで完封され、6安打完投の藤田元司を援護できず、9回裏の先頭打者森徹の本塁打により0対1でサヨナラ負けを喫していた。そのため、同日の巨人は試合前の打撃練習を10分間延長。更に第1試合で王を1番に起用し、王は一本足打法を敢行した。後に荒川は「あの日ヒットが出なかったら一本足打法は止めさせていた」と語っており、たった1日で王の運命が左右されたことになる ただし、この頃の王はフォームを変えることが珍しくなく、7月1日の試合におけるフォームの変化については、翌日の新聞は巨人の親会社である読売新聞をはじめほとんど報じていない 7月に入り王が立て続けに2本、3本と本塁打ペースが上がってきたところで「そういえば変な打ち方しているぞ」と騒ぎ始めたという。開幕の4月から6月まで9本塁打だった王は、7月の1ヶ月だけで10本塁打を放ち、一気に本塁打の量産ペースを上げた。王自身も結果が出てきたことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、練習に打ち込むようになった。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家・羽賀準一のもとに弟子入りして居合を習うと共に、日本刀による素振りの指導を受けた。特に有名なエピソードとして、「天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る」という練習があった。これは一本足打法の弱点を克服させるためであった。一本足打法は、投球のタイミングをずらされると通用しなくなるという弱点があった。7月1日に一本足打法を披露したものの、その後に国鉄の金田正一に同弱点を見破られ、早くも壁にぶつかることになった。例えば、金田は速球を投げる素振りをして、スローボールを投げる等で打つタイミングをずらす投法に出たのである。荒川も弱点は把握しており、弱点が見破られるのは想定内と考えていた。そこで一本足で立って、巧妙な投球であっても対応できる訓練を王に課した。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という精神鍛錬の目的もあった。この年38本塁打・85打点で初めて本塁打王と打点王を獲得。以後、王は引退まで一本足打法を貫いて、この打法で822本塁打を記録した。の梶原一騎との対談 では「二本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「一本足がダメになったら引退」という趣旨の発言をしている。前述のとおりルーキーシーズンは王をカモにしていた権藤博も、一本足打法になった王の変化に驚いた一人である。「隙のないバッターになった こちらの思うところに完璧に投げられなければ抑えられない 球1個分外れればボールになるし、球1個分中に入ればホームランという感じだった」と語っている。後にこの打法で本塁打記録が達成され、アメリカのメディアからは「フラミンゴ打法」とも言われるようになった メジャーリーガーには「フラミンゴ・サダハル・オー」と呼ぶ者がおり、これに由来するものである 1981年から1987年までは後楽園球場、1998年から現在は東京ドームの1番ゲートは「王ゲート」と称されており、そのモニュメントで再現されている また2002年には王の現役時代のバッティングを再現した「王貞治スーパーリアルフィギュア」 (868体限定) が販売され、一本足打法が再現されている。この本塁打は金田を驚嘆させたが、金田は一本足打法転向後も王をカモにしていたこともあり、打たれた球種・コースを投げ続けたが、同年の王にはことごとく打たれたという。これにより金田は「長嶋は対戦する前から研究をしたが、王は打たれてから研究した」と語っている (別のTV番組では、「ワシはバッターの研究なんてしたことがない 研究したのは王貞治が初めてだったね」と語っている) 。この年、王は金田から1試合2本塁打2回を含む7本塁打を奪い、同一投手に対するシーズン本塁打数のタイ記録となっている。この年のオフからオープン戦の途中まで2本足に戻した3ヶ月の間に、自分には一本足打法が一番あってることを再確認でき、それがその年の55本塁打につながったと述べている。ますます一本足打法に磨きがかかり、打撃の確実性が増した王は1968年に初の首位打者を獲得。以後、まで3年連続首位打者を獲得した。いずれも本塁打王との二冠だったが、打点王は3年連続で長嶋に阻まれ、三冠王には届かなかった。しかし1969年、1970年は再び2年連続でMVPに選ばれた。この時点でMVP獲得5回となり、4回の長嶋を上回った。一方、スランプは翌まで尾を引き、あまりの深刻な不振に川上哲治監督も二本足に戻すことを勧めた程であった。しかし32歳の王は頑なに一本足打法を貫いてスランプを脱出し、9月20日には923グラム88センチの圧縮バットでついに公式戦7試合連続本塁打の記録を達成した。9月11日宮本洋二郎から雨中の34号ソロ (後楽園、通算520号) でストリークを開始して、13日先発上田次朗のスライダーを打って35号ソロおよび江夏豊の直球を打って36号ソロ (後楽園) 、14日谷村智啓から雨中の37号2ラン (後楽園) 、17日のダブルヘッダーでは第1試合に渋谷幸春から38号ソロ、第2試合に稲葉光雄から39号ソロと土屋紘から40号2ランで、この2試合は6打数4安打4四球 (後楽園) 、19日はルーキー山本和行のフルカウントでの6球目 (試合開始から19球目) のシュートを41号2ラン (甲子園) 、20日は村山実の4球目 (試合開始から15球目) の真ん中高めのフォークを42号ソロ (甲子園) 。これは1986年にランディ・バースに並ばれたが、未だに日本プロ野球記録である。この年、前半のスランプの影響で打率こそ2年連続で3割を切ったものの、48本塁打と再び大台を突破し、当時の自己最多となる120打点を記録、復活を遂げた。は、打率.285・33本塁打・81打点に終わり、一本足打法に切り替えた1962年以来、初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わった (ベストナインには選出) 。16年間連続で続いていたOPS10割、100四球の記録もこの年は.980・89四球となり、衰えは隠せなかった。なお、この年の9月21日の対阪神戦で自身唯一の代打本塁打を放っている (ちなみに長嶋茂雄は13度の代打出場があるが、代打本塁打は1本も記録していない) 。、シーズン1号本塁打で、オープン戦、日本シリーズ等も含めた通算した総本塁打数1000に達したが、打率.236 (その年の規定打席到達者の中で最低の打率) ・30本塁打・84打点に終わり、ついにベストナインの選出からも漏れる。OPSも.803と一本足打法に切り替えた1962年以来では自己最低の数字であった。2008年・7月1日~3日開催のセ・リーグ公式戦「巨人-ヤクルト」は永久欠番シリーズで「王貞治シリーズ」となっている 永久欠番シリーズとして開催されたものの「当事者は他球団のユニフォームを着て指揮」している唯一の監督となった。この日程はトレードマークである一本足打法が誕生した日 (7月1日) にちなんでいる。若いころは年配の指導を積極的に受けていたが、実績が出来るようになってからは野球に対してプライドが高くなり、打撃が不調のとき他人から助言されても、「俺より打ってる人の言うことなら聞くけどね」と、たとえ相手が年長者でも聞き流していた 絶対的な存在である川上哲治監督の「そんな不安定な打ち型 (一本足打法) は止めて、基本の二本足に戻したらどうか 君の力量なら充分4割も狙える」との提案に対し、一本足打法に絶対の自信を持つ王は断ったという また、晩年の長嶋が周囲に打撃について聞き回っている姿を見て、「何であんなに才能のある人が簡単に人の言うことを聞くんだろう? 打つのは自分なんだから、ほいほい人の話を聞き入れていたら、かえって選手生命を縮めるのでは」と不思議がっていたという。一方、川上は、自分の助言をすんなり吸収する長嶋のほうが頑固な王より打撃の極意に近いものを得ただろうとの評価をしている。また指導者としての初期は、駒田徳広や稲垣秀次などに、自身の一本足打法の習得を薦め、師匠の荒川博に指導を託したことがあった。特に体も大きく、21歳のシーズンに12本塁打を記録した駒田には大いに期待をかけたが、駒田には明らかに一本足打法が合わず成績を下げ、また王の求める高いレベルの要求がプレッシャーとなり、半ば逃げ出すように一本足打法の習得をあきらめてしまった。また、稲垣も一度も一軍に上がれず、結果を残せなかった。それ以後、王は自身の打法を選手に押し付けることをやめ、選手にあった指導をするようになった。