Images of 自我消耗
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ミュンヘン空港での乗り継ぎの間にダッハウ強制収容所を訪れた。この日は朝から雨が降り続いてはいたが、オクトーバーフェストの最後の土曜日ということもあって、早朝からビールをあおって陽気に騒ぐバイエルン気質を目の当たりにしていた。当然観光客も多く、どの観光スポットも賑わっていたが、ダッハウ強制収容所が他のスポットと同じように、多くの"観光客"が訪れていることに少し驚いた。ミュンヘン中央駅からはSバーンの終点ダッハウ中央駅まで約20分、更にバスで10分程度、ほぼ30分毎に発車している。ちなみに小生が乗車したバスはかなりの混み方で、独、英語の他、様々な言語が聞こえてきた。アウシュヴィッツまで行かずとも、"お手軽に"ナチの犯罪行為を目の当たりにすることができる。
昨年ポーランドのアウシュヴィッツとビルケナウの強制収容所を訪れ、その時の強烈な印象を旅行記に書いた。胸が張り裂けるような展示と写真の数々に目は慣らされていると思っていたが、やはりここは"お手軽に"訪問できる場所ではない。オクトーバーフェストとは別世界の、目をそむけてはならないドイツの、いや世界の歴史の舞台だ。
http://4travel.jp/traveler/hank4881/album/10679168/
ダッハウ強制収容所は、ミュンヘンの北西15キロほどのところにある都市ダッハウに存在したナチス・ドイツの強制収容所である。1933年にバイエルン州警察長官だったハインリヒ・ヒムラーは記者会見を行い、ダッハウ強制収容所の設置を発表した。ナチスの強制収容所の中では最も古く、後に建設された多くの強制収容所、1936年にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にブーヘンヴァルト強制収容所、1940年にはポーランドにアウシュヴィッツ、ビルケナウ強制収容所などのモデルとなった。間もなくドイツがポーランドに侵攻、第2次世界大戦に突入しユダヤ人の収容は本格化する。
戦争はドイツに不利になり、終結が近付くにつれダッハウ収容所の状況はますます悪化した。連合軍がドイツ本土に迫ると、他収容所から移送された多くの囚人は、食事や水がほとんどない状況で、消耗して衰弱し半死半生となった。チフスの蔓延が深刻な問題となり、前線から続く新たな移送で、収容所はすぐに囚人で溢れかえり、衛生状態は人間の尊厳が守られる状況ではなくなった。強制収容所建設から解放の日までに3万人を超える人々が命を奪われたという。
1945年4月、ダッハウ強制収容所の監視塔は連合軍に占領され、白旗が翻った。収容所が連合軍に降伏すると、多くの収容所守備部隊は脱走するか、米兵が行った即決裁判により銃殺刑となった。アメリカ軍は32,000人の囚人を解放、定員250人の収容棟20棟には囚人が1600人ずつ詰め込まれていた。39輌の列車に各々100体以上の遺体が詰め込まれているのも発見した。
現在の強制収容所の入り口には、アウシュヴィッツと同じく「ARBEIT MACHT FREI」と書かれた門扉があり、敷地内には管理棟とバラックが2棟だけ復元され、管理棟は博物館になっている。アウシュヴィッツと同様の、目をそむけたくなるナチスの犯罪行為の証拠品や写真が展示されており、またガス室や焼却炉も見学できる。バラック棟には収容所の内部のトイレ、ベッドなどが復元されている。しいて難を言えば、建物も展示物も新品でこざっぱりとして整っており、写真で見る「この世の地獄絵」の迫力はない。
ドイツが自国の犯した犯罪行為を風化させないための努力は立派である。「ドイツの良心」として敬愛されたエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領は、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」と演説し、感銘を与えた。翻って日本はどうだろうか。中国や韓国から「日本は戦争への反省が足りない」と歴史認識についての甘さを未だに指摘される。その状況は全く違うとしても、戦後処理について日本はドイツに学ぶところが多いと思う。