Images of 藤原璋子
原创 挟天皇以令日本,终结把持朝政的藤原氏,武士如何开创千年统治? 武士阶层诞生的根本元素大化改新之后的千年贵族藤原氏与“摄、关” 政治皇权与臣权的争斗:从“摄、关”到“院政”武家政治的序幕:平源争霸结语:几个题外话
2020年11月19日(木)12時過ぎ、石清水八幡宮の上院参道の西側、平安時代中期から仏堂建立が始まった西谷地区へ。平安時代後期に、白河法皇が大塔の建立を発願したことをきっかけに、谷を埋めた大規模な整地が行われ、大塔に続き小塔、鎌倉時代には八角堂が建立されたところだが、現在はこれらの建物は残っていない。
大塔は1111年に完成した巨大な仏塔だった。1603年に豊臣秀頼が再建。その絵図面によると、現存する和歌山県根来寺の国宝の大塔とほぼ同規模の、日本最大級の真言形式の大塔で、側柱一辺14.9m、高さ27.1mあった。明治初期に神仏分離令のため取り除かれた。現在、生垣の通路に見えている丸い花崗岩が落ち縁の礎石だった。
その南、小塔は鳥羽天皇の皇后である待賢門院(藤原璋子)の発願により1132年に建てられ、安土桃山時代末期の1596年の慶長の大地震で倒壊したまま再建されなかった。大塔より小型の多宝塔と呼ばれる形式の塔だった。
大塔の北、八角堂は鎌倉時代の初め、第84代の順徳天皇の御願により建てられた。隅切り八角形の仏堂で、堂内には像高約3mの金色に輝く阿弥陀如来坐像が納められた。その後、1607年に豊臣秀頼により再建された。
このお堂も明治になり神仏分離令にため撤去されることとなり、男山の南にある正法寺の住職・志水円阿が1870年(明治3年)に私有地であった現在の松花堂庭園の北西に移築し、現在もそこにある。堂内に安置されていた阿弥陀如来像国の重文指定を受け、現在は正法寺の法雲殿に安置されている。
現在の西谷にあるのは、まずは三ノ鳥居から西に入ったところにある大楠公手植えの楠。南北朝時代に入ってすぐの1334年に楠木正成が必勝祈願参拝の折に奉納した25本の楠のうちの1本。御文庫のクスノキと呼ばれ、根周り18mの樹齢700年にせまる大木。
その少し北側に建つのが、都山流尺八楽会初代宗家中尾都山顕彰碑。中尾都山宗家は全国を行脚し斯道の普及に努め、1896年(明治29年)に都山流を創始した。枚方生まれで、幼児の頃母に連れられて参詣したことを切っ掛けに石清水八幡宮を信仰し、以来亡くなるまで75年間この神社を守護神として敬った。
広場の奥、西側にはエジソン記念碑。元々はあのエジソン(Thomas Alva Edison)の電灯発明50周年を記念して計画され、境内隣に1934年に建立された。その後1958年に現在地に移転、さらに1984年にデザインを一新して建て替えられた。
何故ここにエジソンかと云うと、1879年に白熱電球を発明した彼は、その後も電球の長寿化に取り組み、紙や糸、植物の繊維など数々の材料のフィラメント(Filament)を試していた。その数は植物の種類だけでも6000種類以上と云われる。ある日、日本からの土産として研究所にあった扇子の骨を使ったところ寿命が大きく伸びたため、その材料の竹で最適のものを求めて世界中に研究員を派遣した。
その一人のムーア研究員(William H.Moore)が日本を訪れ、様々な地域・種類・成長度の竹を集める中、当時の槇村正直京都府知事から竹の名産地であった八幡竹を紹介され、他所の竹と共にエジソンのもとへと送った。そして、この八幡竹から作ったフィラメントが最適のものと判明、発明時には40時間だった寿命が平均1000時間以上に伸びた。1892年にセルロース(Cellulose)製に転向されたが、それまでは男山の竹で造られたフィラメントを使った電球がアメリカの家庭や職場、街頭を明るく照らしていた。
記念碑の前には電気繋がりで電気自動車のEVコンセントが設置されており、またエジソンの誕生日である2月11日にはエジソン生誕祭、命日である10月18日前後にはエジソン碑前祭が斎行され、記念碑前で日米両国の国歌を奉奏し、国旗を掲揚している。
記念碑の正面に建つ塔は涌峯塔(ゆうほうとう)といい、1984年に彫刻・陶芸で高名な清水九兵衛氏の設計で建てられたもの。神刀や神職の使用する笏や冠のような形をしており、高さ18.3mある。単なるシンボルタワーでなく、ポンプで塔の高いところに水を吸い上げ、落下する水の勢いを利用して各所に配水する石清水八幡宮の給水塔となっている。
涌峯塔の前、路を挟んで北側に建つのがボーイスカウト像。京都ではボーイスカウトの活動が活発で、名だたる神社やお寺もボーイスカウトの団本部になっており、その中の一つがこの神社にあり、この像を建立した。うちの子供たちも一度カブスカウトのイベントに参加したことあったが、興味を持たなかったのでその後は縁がなかったわ。
さらに北側、大塔跡と八角堂跡との間にあるのが三女(さんみょう)神社。平安時代の1042年に大分の宇佐神宮から勧請された。天照大神(あまてらす)と建速須佐之男命(すさのお)のうけい(占い)から生まれた3柱の女神、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)と多岐津比売命(たぎつひめ)を祀っている。この3柱の女神は宗像三女神と呼ばれ、玄界灘の沖津島・大島および玄海町に分かれて祀られる宗像大社の祭神で、航行安全・豊漁などを司る海の神。
三女神社から上院参道に向かう途中には八幡五水の一つの供御井(くごい)。覆屋の井戸で、切妻造・妻入・屋根本瓦葺。江戸中期の1714年頃の建立と考えらている。
実際には、これから御本社に参って、男山展望台を回ってから行ったのだが、供御井と涌峯塔の間、東側に2013年リニューアルした境内休憩所、石翠亭があり、白い出汁が特徴の白こいうどんを戴いた。白みそのように見えるが、豆乳ベースで、なかなか美味しかった。
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いよいよ御本社にお参りするが、続く