Images of 蘆名義広
会津若松城は、地元では鶴ヶ城(つるがじょう)といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。観光名所の案内にも鶴ヶ城と書かれる。
若松城のはじまりは諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。しかし、天正17年(1589年)に伊達政宗は、豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。天正18年(1590年)の小田原の陣で政宗は秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、代わって蒲生氏郷が入城した。文禄元年(1592年) より大々名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。名も若松に改められた。文禄2年(1593年)7重(5重5階地下2階とも)の天守閣が竣工し、「鶴ヶ城」に改められた。しかし、慶長3年(1598年) 氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封され、代わって越後より上杉景勝が120万石で入封した。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝は、徳川家康によって30万石に下げされ、出羽国米沢に移封された。
翌慶長6年(1601年)には、蒲生秀行が再び入城したが、寛永4年(1627年) 嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山城より加藤嘉明が入封し、子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、慶長16年(1611年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守閣に組み直させている。しかし、寛永20年(1643年)加藤明成も改易された。
保科正之(2代徳川秀忠の庶子)が出羽国山形より23万石で入封し、以後、明治維新まで保科氏から改名した会津松平氏の居城となった。
慶応4年(1868年)戊辰戦争では、若松城立て篭もり、1か月の間持ちこたえ、遂に城は落ちなかったが、その後開城された。落城と思い違いした白虎隊の飯盛山での悲劇は良く知られている。大砲を撃ちかけられ城壁に穴が開き、屋根が崩れかけた天守閣など多くの建造物の傷みは激しく、放置された後に破却された。
昭和40年(1965年)に天守閣は鉄筋コンクリート造により外観復興再建された。内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されている。しかし、その後の門、櫓、長屋の再建は木造で行われている。大阪城、名古屋城、熊本城などの巨城が鉄筋コンクリート造で天守閣が復興され、ここ会津若松城もそうなった。これまでに何度か福島県立博物館に足を運んだが、本丸までは足を踏み入れなかった。天守閣は昭和39年(1964年)の建設中に見て以来40年、初めての見学となったが、いかにも鉄筋コンクリート然とした姿で全く趣がない。
(表紙写真は会津若松城天守閣)