Images of 蘆淞区
通称日本租界の乍浦路は南を北蘇州路の乍浦路橋から始まり、北四川路の裏道として武進路までの長さ1038m、幅8〜19mの路です。租界時代北四川路は上海の三大商店街の1つに数えられ、その脇道の乍浦路は歓楽街(映画館、広東料理屋、広東の、2階建ての茶屋、広東妓楼、日本料理屋、浴室、妓楼、欧人妓楼、美容院、マッサージ院、ダンスホール)となっていました。共同租界の北端の海寧路あたりは旅館街で売春宿も多かった。当時映写機が発明され映画館が建ち並び映画街も出来た。現在も現役の映画館と映画館だった建物や映画館跡地の石碑が現存しています。共同租界の北端の海寧路から北は工部局(租界の役所で政治、経済、警察全て)が勝手に租界を(1864年〜1904年の間)段階的に武進路まで広げて通称日本租
界の繁華街になりました。乍浦路の武進路辺りには日本人の為のお寺として西本願寺と東西本願寺を開きました。現在でも西本願寺の建物が残っておりナイトクラブになっています。現在の乍浦路は上海の美食街を形成して繁華街になっています。近年再開発や公安の規制で美食街・屋台村も減って来ています。通称日本租界の名残りを1番色濃く残している路が乍浦路です。
上海優秀歴史建築、虹口文物保護、歴史ガイドマップに掲載された
建造物です。
歴ガ 豊陽館 1894年創業 赤煉瓦3階建 北海寧路64号
百度 海寧路は共同租界の北の境界線 海寧路
歴ガ ウヰルス劇場 勝利電影院 1930年 乍浦路408号
歴ガ 本圀寺 1899年 乍浦路439号
HK-J-011-V 住宅 乍浦旅店 乍浦路439号 2階
第3回 西本願寺(夢幻柔情舞庁) 宗教建筑 乍浦路455号
歴ガ 西本願寺別院 1906年 赤煉瓦3階建 乍浦路471号
HK-J-021-V 上海市虹口区消費者権益保護委員会 乍浦路480、490号 2階
歴ガ 陸戦隊租界部隊本部 1932年建 現在無し。 海南路10号
第4回 虹口救火会 虹口区消防站 哈爾濱路2号、呉淞路
歴ガ 虹口マーケット 三角地菜場 跡地高層ビル 消防署前
歴ガ 上海毎日新聞社 1918年創刊 哈爾濱路1号 呉淞路交差点
百度 上鉄軍招 鉄路レストラン 上海毎日新聞社跡
上海戦跡 呉淞クリーク白川橋附近 戦前絵葉書 宛名面に剥がし跡- Shanghai Battlefield, Wusong Creek. China S210730-47|rubyring-books
「上海老婆のひとりごと」というブログにもアップしました。
・・淞hu鉄路の歴史・・
1876年中国初の鉄道として、河南北路(塘沽路付近)−呉淞鎮間で開通。当時の名前は呉淞鉄路で全長15km。
1897年に、始発と終点をそれぞれ宝山路と砲台湾に移して全長16.09kmに。淞hu鉄路に改名。
1937〜1945年上海陥落時期、日本軍が占領し、終点を砲台湾から(呉淞の)黄浦江の周辺へ。太平洋戦争勃発後、日本軍は武器を作る鋼材が不足していたので、wen藻浜-砲台湾間のレールと鉄橋を全て撤去した。(wenの漢字は、草冠、左に糸、右に温の右側部分)
1945年日中戦争終結、国民政府が淞hu鉄路を運営。
1949年中華人民共和国誕生、人民政府が上海-wen藻浜間の旅客貨物輸送業務を行う。
60年代に入り、上海から呉淞へ行く公共交通手段が増え、1963年旅客輸送業務を停止、貨物輸送専門に。
1997年、3号線工事のため廃線に。
淞hu鉄路は、zha(門構えに甲)北区宝山路から虹口区を通って、宝山区呉淞砲台湾までの間に全9駅がありました。
「大柏樹站」の近くにはかつての「江湾站」が存在していました。
3号線の宝山路站、東宝興路站、虹口足球場站、赤峰路站、大柏樹站、江湾鎮站は、淞hu鉄路の線路があったルートです。
3号線は「明珠線」の別名がありますが、この名前で呼ぶ人はまずいないでしょう。
高架を走るので、車窓からの景色を楽しむことが出来ます。
淞hu鉄路江湾站跡地は、大柏樹站を下車して、広紀路567号のwen(さんずいに文)水東路付近にあります。
3号線高架に沿って、淞hu鉄路の線路と蒸気機関車が静かに佇んでいます。
道路から敷地の中の様子を窺うことが出来ますが、じっくり見たいのならば、門が開いてる9:00〜16:00の間にどうぞ。
江湾鎮街道事務所のスタッフが管理しています。
呉淞鉄路はイギリスの怡和洋行(ジャーディン・マセソン商会)により1876(明治9)年7月3日に公共租界−江湾間の延長7.5kmが開業し、同年末までに江湾−呉淞口までの全線が完成して、「パイオニア」と名付けられた蒸気機関車が走った。(鉄路博物館に模型あり)。これが中国で最初の公共鉄道で、中国の鉄道史では、この呉淞鉄道の開業をもって鉄道の創業としている。但し清朝政府は反対し許可を与えず1年後の1877(明治10)年10月21日に「収購呉淞鉄路条款」が締結され線路は撤去され、蒸気機関車は揚子江に沈められてしまった。これが中国の鉄道開発を遅らせてしまった。20年後鉄道の必要性を認め、1898年(光緒24年)に淞滬鉄道として開通する。日本占領時代には軍事物資輸送の為に徴収した事もありました。現在は地下鉄3号線高架となり、都市交通の一線を担っています。日本の鉄道は明治5年(1872年)10月14日に、新橋駅 - 横浜駅間で正式開業した。中国の高速鉄道網の敷設距離は既に日本の新幹線の営業距離を抜いています。但し車両の開発は日本の技術である事は伏せて中国独自の開発技術だとして後進国への輸出も画策しています。