Images of 陳儀
Taiwan in Time: After 228: The governor-general’s last daysFormer Taiwan governor-general Chen Yi is pictured just before his execution on June 18, 1950.The state-run Central Daily News ran the headline, “Colluding with communist bandits and plotting rebellion, the traitorous Chen Yi is executed today” on June 18, 1950.This paper is a record of Chen Yi’s response to being sentenced to death in June 1950. In it, he says: “Even if I die, my spirit will live on.”Most PopularYou might also likeNotes from Central Taiwan: Troubling economic signs ahead for Taiwan (and the DPP)Environmental Impact Assessment: A bad thing done by well-intentioned people: the cruel practice of ‘mercy release’The Glories of Penghu’s Cimei IslandThe temperature the human body cannot survive
Taiwan in Time: ‘Scheming traitors’ and ‘Japanese lackeys’This March 28, 1947 editorial in the government-run Taiwan Shin Sheng Daily News blames the 228 Incident on “scheming traitors with political ambition along with lackeys of the former Japanese government,” and called for the people of Taiwan to drop their Japanese way of thinking and embrace the “motherland.”Most PopularYou might also likeNotes from Central Taiwan: Troubling economic signs ahead for Taiwan (and the DPP)Environmental Impact Assessment: A bad thing done by well-intentioned people: the cruel practice of ‘mercy release’The Glories of Penghu’s Cimei IslandThe temperature the human body cannot survive
この二二八紀念館にはかつて来たときに二度足を運んでいるが,一回は改装中,もう一回は月曜休館日で見学できなかった.今回三度目の正直.最初に「二二八国家記念館」を見学.そのむごさと台湾発展を阻害したことを知る.私の感想は台北職員旅行2-二二八国家紀念館の項に記したのでそちらを参照してほしいが,ここではあまり日本人が知らない歴史なのでWikipediaから引用する.
「1947年2月27日、台北市で闇煙草を販売していた女性(林江邁、40 歳、2 人の子持ち寡婦)を、中華民国の官憲(台湾専売局台北支局密売取締員 6 名と警察官 4 名)が摘発した。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収したのである。戦後の台湾では、酒・煙草・砂糖・塩等は全て中華民国によって専売となっていた。しかし、大陸ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に発砲、まったく無関係な台湾人(陳文渓)を射殺し、逃亡した。この事件をきっかけとし、中華民国への怒りが遂に爆発した。翌 28 日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけた。しかし、中華民国側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行う。多くの市民が殺害され、傷を負った。この後、国府軍は台北以外の各地でも台湾人への無差別発砲や処刑を行っている。本省人側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せない部族もいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局(SUOMITA注,現在の紀念館)を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけた。劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示した。しかし、在台湾行政長官兼警備総司令陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請した。彼は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蒋介石に送っている。蒋介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第 21 師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、善戦した(「独立自衛隊」、「学生隊」等)。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まるのである。この事件によって、約 28,000 人もの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。実際の被害者の数はさらに多いとの説が今尚根強く存在しており、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。」という事件だ.台湾人のアイデンティティを示すため,日本語で話し,旧日本軍の軍服や装備で戦ったのに,日本人が知らないのはやはりいけないことと思う.
Taiwan in Time: 228’s tragic survivorChiang Wei-chuan narrowly escaped death after the 228 Incident.Liao Chin-ping was one of seven Taiwan Provincial Political Construction Association leaders who “disappeared” in the aftermath of the 228 Incident.Taiwan Provincial Political Construction Association chairman Chang Pang-chieh was forced out of Taiwan in 1946 by the then governor general Chen Yi.Huang Chao-chin was one of seven Taiwan Provincial Political Construction Association leaders who “disappeared” in the aftermath of the 228 Incident.Most PopularYou might also likeNotes from Central Taiwan: Troubling economic signs ahead for Taiwan (and the DPP)Environmental Impact Assessment: A bad thing done by well-intentioned people: the cruel practice of ‘mercy release’The Glories of Penghu’s Cimei IslandThe temperature the human body cannot survive