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カリーニングラードと聞いてその場所がすぐに頭に浮かぶ方は、戦後史、またはドイツ、ロシアの歴史に詳しい方か、私のようなよほどの物好きに違いない。バルト海に接する港湾都市で人口は約42万人、ポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの飛地領で州全体の人口は約95万人、世界有数の琥珀の産地としても知られている。
サンクトペテルブルク滞在中に、ロシアの飛び地カリーニングラードを初めて訪れることができた。今回の主目的地は長年の念願だったポーランドのアウシュヴィッツであるが、途中この歴史に翻弄された町に立ち寄ることにした。カリーニングラード乗り継ぎのロシア航空+ポーランド航空というまず日本人が乗ることはないであろうルートを選択した。
この町はもともと1255年にドイツ人の東方植民によって建設され、1946年まではケーニヒスベルク「王の山」と呼ばれるドイツの東北辺境の重要都市であった。数学者のオイラー(1707生)、哲学者のカント(1724生)、ヘルダー(1744生)、E.T.A.ホフマン(1776生)、建築家のブルーノ・タウト(1880生)などの著名なドイツ人がこの町で生まれ、または活躍している。実はこの町を訪れようと思い立ったのは、ドイツ文学の会でE.T.A.ホフマンの作品を読んでいるからでもある。
ケーニヒスベルクは、1255年にドイツ騎士団によって建設、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となる。1410年のタンネンベルクの戦いの結果、ポーランド王国の従属国となり、その後ポーランドから独立するがプロイセン公国に隷属、1701年ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクで即位、プロイセン王国が誕生した。この時期、ケーニヒスベルク大学を中心に、イマヌエル・カントら多くの学者を輩出する。19世紀にプロイセン王国を中心にドイツ帝国が形成され、その一部となる。
第一次世界大戦後、「西プロイセン」はポーランドに割譲され、ケーニヒスベルクはドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立したドイツの飛び地となった。
その後ヒトラーのナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦に突入。そして独ソ戦の末期、ケーニヒスベルクは東部戦線の激しい戦場となり、1944年8月イギリス軍の爆撃機による空襲で旧市街の大半、大聖堂はじめ古い教会のほとんど、ケーニヒスベルク城、大学などは完全に破壊された。1945年1月ソ連軍に包囲され、ドイツ市民や避難民はバルト海経由でケーニヒスベルクから脱出。同年4月、ついにドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは陥落した。
ポツダム会談でケーニヒスベルクはソ連邦への帰属が決定された。そしてスターリンはドイツ系市民約2万人の追放を決定、全員鉄路で旧東ドイツ地域へと移送され、逆に大量のソ連市民が送り込まれる。1946年7月、ソ連領となったケーニヒスベルクは時の最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンにちなんでカリーニングラード市に改称された。
話はまだ終わらない。ソ連崩壊後にリトアニアがソ連から独立した結果、カリーニングラード州は今度はソ連・ロシア連邦の飛び地となってしまった。この地の経済は崩壊し、麻薬取引、人身売買、盗難車の取引中継地など犯罪の拠点に使われるほど治安が悪化、また軍事都市時代の有害な廃棄物が放置されており、住めない土地が各地に広がっている。
近年プーチン大統領の夫人がカリーニングラード出身ということもあってカリーニングラードの復興をてこ入れすることにし、経済対策として経済特区を設け輸入関税を免除、ロシア本土との通行にリトアニアのビザ取得が簡素化され物流も整備された結果、自動車会社のKIA、BMW、GMなどが進出し、カリーニングラードの経済は驚異的な成長を遂げているという。
前置きが長くなったが、2時間遅れてカリーニングラード空港に到着、エアサイドは改築、増築がされているが、予想通り寂れた空港だ。短時間にこの町を巡るためにタクシーをチャーターした。まず空港に近い順に、琥珀博物館を訪問、琥珀の原石や昆虫の化石、エカテリーナ宮殿の復元された「琥珀の間」の模型を見る。続いて「ヨーロッパ一醜い建物」と言われる「ソヴィエトの家」を訪れた。こここそかつての栄光の「ケー二ヒスベルク城」のあったところで、戦後十分修復可能であったこの城を、ソヴィエト政府はダイナマイトで完全に撤去、この「醜い」ビジネスセンターを建てた。未完成のまま廃墟化していたが、2005年に工事は完成したと聞く。
続いてドイツの支援で修復された「王の城門」、カントの墓のあるケーニヒスベルク大聖堂を訪れる。後者は哲学者カントの博物館となっており、修復の完成セレモニーでシュレーダー元ドイツ首相とプーチン大統領が並んで参列している写真が展示されている。残る時間は市の中心、南駅にあるカリーニンの像、ブランデンブルク門、ドイツ劇場、シラー広場などを駆け足で見て回った。至る所に年老いたドイツ人が故郷を訪れて、あまりに醜くなってしまった町を見て涙を流す、という「醜い」建物が建てられている。
再び空港に戻ってワルシャワ行きに乗る。アウシュヴィッツに向うためだ。ドイツ贔屓の日本人には辛い苦行のような旅が続く。