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日立風流物の日立から常陸太田、水戸の街歩き(二日目・完)~徳川光圀が隠居した常陸太田は、戦国大名佐竹氏が450年以上も根拠としていた地。対して、水戸市内では回天神社。天狗党ら幕末志士の墓が並び、これも極めてディープです~
水郡線(水戸~郡山)磐城棚倉駅より徒歩10分の棚倉城(たなぐらじょう、福島県東白川郡棚倉町)は元和8年(1622)常陸国古渡(ふっと)より入封した丹羽長重(にわ・ながしげ、1571~1637)によってこの地に鎮座していた近津神社(馬場都々古別神社)を現在の馬場に遷宮させ、その境内に新たに造られた輪郭式の平城で長重移封後は近江国長浜より入封した内藤信照(ないとう・のぶてる、1592~1665)によって完成されています。
丹羽長重の父は織田信長の宿老で五層七重の天守閣を備えた安土城築城の総奉行を務めた築城の名人丹羽長秀(にわ・ながひで、1535~1585)で信長の信頼厚く臣下では初めて佐和山城主となり後に若狭国の支配を任され、長秀の支配地域は約13万5千石程に至ります。
天正10年(1582)信長が本能寺の変で倒れると状況が一変、明智光秀を倒した羽柴秀吉に味方し信長没後の織田家の家督を決める清須会議では秀吉方として三法師(信長の嫡孫)を後嗣とすることに賛成します。
翌天正11年、賤ヶ岳で柴田勝家を倒した戦いでは軍功により勝家の旧領である越前一国・加賀国能美・江沼郡を秀吉から下賜され、これまでの支配地と合わせて123万石の大大名に躍進しますが、躍進著しい秀吉の風下に立たざるえない立場に置かれてしまいます。
天正13年(1585)4月長秀は51歳で死去、ここで若輩の長重が父長秀の遺領123万石を相続することになります。
しかしながら、長重が秀吉の越中佐々成政(さっさ・なりまさ)攻略に従軍、その際家臣が軍令違反したとの理由で越前国没収、更に天正15年(1587)の薩摩島津征伐の際にも軍令違反を問われ若狭国没収され遂に加賀国松任4万石城主にまで減封されるに至ります。
慶長4年(1600)関ケ原合戦で長重は東軍に属するも同じく東軍方の前田利長(まえだ・としなが)と戦ったことが家康に咎められ、小田原戦役の軍功によって故秀吉から加賀国能美・石川両郡を加増され12万5千石まで復活した所領を全て没収、併せて謹慎の沙汰が下され、京都大徳寺から江戸高輪に移され隠棲生活を送ることになります。
冷遇された長重ですが彼の持ち味である腐らず真面目な態度で謹慎を送っている姿に好感を持った家康は将軍秀忠に命じて便宜を図るよう指示、慶長8年(1604)2月、長重は常陸国古渡(ふっと)に1万石を与えられまさかの大名復帰となります。
元和元年(1615)の大坂夏の陣でも前年冬の陣に引き続き長重は大坂へ出陣、1万石という小大名のため引き連れたのは500名の将兵ながら藤堂高虎・井伊直孝の軍と共に前線に列し豊臣方に立ち向かいます。
元和3年(1617)、先の大坂の陣における奮闘ぶりを評価されて更なる徳川家の信頼を厚くした長重は若輩ながら将軍秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)として他の信長時代から名将として名を馳せていた年配6人と共に任用されています。
元和5年(1619)、幕府から江戸崎に1万石の加増を受けた長重はその2年後に更に3万石を加増され棚倉に5万石を以て入封、前藩主は「不敗の名将」の異名を有するも関ケ原合戦では西軍に属していた立花宗茂(たちばな・むねしげ、1567?1643)で合戦後改易、浪人生活を送るも見事大名に復帰し唯一旧領の築後柳川を回復した武将ですが、宗茂居城の赤館城は山城で城域の広がりが乏しく5万石大名にふさわしい城郭を造る必要がありました。
寛永元年(1624)、幕府より新城築城の決裁のもと長重は父長秀より伝授されていた築城技術を以て赤館に替わる築城に取り掛かります。
築城の立地については赤館から南進の近津明神(ちかつみょうじん)の境内を城域に選定、明神の西側が急勾配の丘となっており防御に優れる地との見立てが長重にあったと思われます。
しかしながら築城の為に昔から慣れ親しんでいる明神を移すことに難色を示している住民を説き伏せて当明神を遷宮に導き明神跡地に築城工事が始まります。
寛永4年(1627)会津藩主蒲生忠郷(がもう・たださと)が継嗣なく死去、生母が家康の娘であったため改易は免れるも蒲生家を相続した忠郷の弟忠知が60万石から24万石に大減封のうえ伊予松山に転封するに至ります。
蒲生氏の旧領については加藤嘉明(かとう・よしあき)と長重が入封することとなり、加藤嘉明には会津40万石、長重には陸奥国白河・石川・田村・岩瀬4郡のうち10万7千石がそれぞれ封ぜられ、長重は白河を本拠とすることになります。
従って元和7年(1621)に入封し築城をめざした棚倉城は未完成のまま長重は移封せざるを得ず、譜代の内藤信照によって完成したとされます。
尚白河転封後の長重は幕府より奥州の大名を押さえる堅牢な城にすべくその白河城の城郭大改築の命を受け、寛永6年(1630)着工し寛永9年(1633)に完成させ、ここでも築城の名手ぶりがいかんなく発揮されます。
幕府が関東と奥州の境目の要衝の地である白河に外様である丹羽長重を配したのは、長重の築城技術を評価しただけではなく生涯変わらぬ長重の実直さとも言うべき態度が家康・秀忠・家光の歴代将軍の好感を得て信頼に繋がったからこそと言えるかもしれません。
本丸跡大手門よりに建てられた棚倉城説明板には次の如く記されています。
「棚倉城跡
二代将軍徳川秀忠は、丹羽五郎佐エ門長重に命じて、棚倉に平城を築かせた。
長重は案を練り、この地にあった近津神社の神境を最適地とし、宮を現在の馬場都々和気神社に移し、寛永2年、この地に築城をはじめた。
寛永4年、長重は白河に移されたが、代わって滋賀県近江山城より内藤豊前守信照が城主となった。
阿部美作守正静の代になり、戊辰戦争の兵火にかかり、慶応4年6月24日落城した。この間250年、城主の代わること16代であった。
棚倉町 棚倉町観光協会」