Images of アショーカ
インドで年間の半分を過ごすようになって約2年が過ぎた。多くの国で仕事を通じて、またプライベートで多くの人々と接してきたが、インドほど強烈に「異文化」を感じさせる国は少ない。それはアメリカやヨーロッパのキリスト教国はもちろん、イスラム教国のトルコ、UAE、パキスタンに比べてもはるかに強烈である。その大きな理由は、食生活、国民性、価値観などすべてにヒンドゥー教の影響を受けているからであろう。
自分が仏教徒である、などと胸を張って言える輩ではないが、ここ「天竺」に来た以上は仏陀が生きて活躍した場所を訪れてみたい、という思いがプロジェクトの完成が近づくにつれ大きくなってきた。残念ながら仏陀が生まれたのはネパールのルンビニ、覚りを開き説法を行ったのはインドの北部でバンガロールからは非常に離れており、週末旅行ではなかなか手が届かないところにある。その中で、仏陀が訪れたという記録こそないが、仏陀を敬愛したアショーカ王が建立したサーンチーの仏教遺跡を訪れることができた。インドの仏教遺跡で世界遺産に登録されているのはブッダガヤー、アジャンターとここサーンチーの3ヶ所である。
この日の足は、前日にボーパール空港からのタクシーを8時間予約した。MPツーリズム(Tel.0755-277-5572)という会社で、エアコン付きで2,400ルピーであり良心的と言える。サーンチーと次に紹介するビームベートカーという世界遺産2ヶ所を、1日で慌しくはあるがじっくりと見ることができた。
余談になるが、ボーパール空港からサーンチーに向かう途中「TROPIC OF CANCER」という看板があることをドライバーが教えてくれた。この意味をご存知の方はよほど英語のできる方か、その道に詳しい方だろう。「かに座の回帰線」すなわち北回帰線のことで、夏至の日には太陽がちょうど真上にやってくる線である。ちなみに南回帰線は「TROPIC OF CAPRICORN」山羊座の回帰線と言う。
インド中央部のサーンチーは、紀元前3世紀から12世紀頃にかけて栄えた、古代仏教の一大中心地であった。インド史上において最大の帝国を築いたマウリア王朝、第3代アショーカ王はインドを統一国家とするため、戦いによりこの地方を征服した。伝記によれば、アショーカ王は即位後9年目、殺戮を繰り返したことに反省と深刻な懺悔を行ない、やがて、仏陀の法に則って国を統治することを決意、近隣諸国にも仏陀の教えに従うよう使節を派遣した。
インドに残る最も古いこの大ストゥーパは、2,200年前のもので、仏陀が入滅されたのち約200年後、仏教に帰依したアショーカ王によって造られたものと伝わる。このストゥーパはドーム形をしており直径は約36m、高さは約16mある。また東西南北の四方に「トラナ」と呼ばれる塔門が配置されている。トラナの高さは約10m。塔門は日本の鳥居に似ているが、2本の方柱に3本の横梁が渡されている。その塔門には、仏陀の前世から80歳の生涯を閉じるまでが浮き彫りとなっている。
第2ストゥーパは第1ストゥーパから西へ320mほど丘を下った丘の中腹にある。ドームの直径は約14m、頂部は平らに削られている。四方に入り口が設けられているがトラナはない。
第3ストゥーパは 第1ストゥーパの北側60mほどの所にある。ドームの直径は約15mと第2ストゥーパとほぼ同じである。形態上は第1ストゥーパを小規模にしたものであるが、外周の欄楯は失われトラナも南側の1基しかない。
参拝の途中、中国人と思われる老若男女50人ほどの団体と一緒になった。最近世界中の観光地で遭遇する傍若無人な中国人とは少し雰囲気が違っていたので、どこから来たのか英語で尋ねてみた。意外にも英語が通じて、台湾から訪れた仏教徒の巡礼団であると言う。親しみを感じて、一緒に写真を撮り合ったりした。
この後、石器時代の壁画が残るビームベートカーに向かう。夕方のフライトを逃さないために、ゆっくりはしていられない。