Images of イワン・ワシリーエフ
2008年はほとんど毎月モスクワを訪れた。月例で行われたミーティングに参加するためだったが、モスクワはサンクトペテルブルグとは全く都市の構造が違う。サンクトペテルブルグのヨーロッパ調に比較すると、モスクワは市の範囲がとてつもなく広く、私には若干都市計画に一貫性を欠いて秩序なく拡大した巨大都市に見える。(東京に近い?)
モスクワの人口は約1000万人、面積は994平方km。この巨大な都市は、クレムリンを中心に放射状に道路が延び、3本の環状道路により取り囲まれている。とにかく交通渋滞問題が深刻であり、交通事故も異常に多い。雨の日には特に、雪でも降ろうものなら、都心から深夜、早朝なら1時間以内で到着シェレメチェヴォ空港(ドモジェドヴォ空港も同じくらいの距離)にいつ到着するか予定が立てられない。
モスクワの生活ぶりはモスクワ大使館員として赴任されている某一等書記官に伺うことができた。某氏とは長年の付合いであり、モスクワの自宅にお邪魔させていただいた。某氏はオペラ、オーケストラ、奥様はバレエが大変お好きである。ロシア語に堪能であり、モスクワ赴任はご希望だったそうだ。モスクワの生活は、私の印象ほど悪くはないそうで、必要なものはそこそこ手に入るし、オペラやバレエも安く見ることができる。お子さんはインターナショナルスクールで、学校の様子も他国と大きな差はないようだ。
モスクワの町並みは、サンクトペテルブルクほど統一性がない。貴重な歴史的建築物のいくつかはソ連時代に破壊されてしまった。ソ連時代に建てられた建築は、コンクリートが剥き出しの四角い味気ないものが多い。そんな中でクレムリン周辺の特徴ある建築を紹介しよう。
聖ワシリー聖堂(ポクロフスキー聖堂)は、サンクトペテルブルグの血の救世主教会と類似のスタイルであるが、こちらのほうがもっと古く、よりオリジナルなデザインである。赤の広場の南側に建つ大聖堂で、モンゴルへの戦勝を記念して、1560年イワン雷帝によって建てられた。中央の高さ46mの塔を始めとする塔の先端に、9つの玉ねぎのようなドームが取り付けられている。設計したのはポストニクとバルマの二人。イワン雷帝がそのあまりの美しさに驚き、二度とこのような美しい建物ができないよう二人の目をくり抜いてしまったという。イワン4世(雷帝)(1547−1584)の生涯については、アンリ・トロワイヤ著の「イワン雷帝」に詳しく描かれている。幼少から混乱の中で成長し、雷帝の名の通り、冷酷な蛮行を繰り返したことで知られている。
赤の広場は、世界遺産としてモスクワで最も有名なクレムリンの横にある。ロシア語の赤という形容詞は美しい、と同義語で共産主義の赤とは無関係だそうである。レーニン廟はここにある。 モスクワの象徴はクレムリン。クレムリンとはもともと城壁を意味するロシア語であって、ロシアの多くの都市の中心にある。その中で最大で最も有名なのがもちろんモスクワのクレムリンだ。1156年にユーリ・ドルゴルスキー公によって木造の城塞が建設され、16世紀頃には現在の姿に発展した。ロシア正教の総本山として、また政治、軍事の中心として繁栄した。1712年、ピョートル大帝によるサンクトペテルブルグ遷都により首都としての地位は失われたが、革命後はソヴィエト政府がおかれ、首都に返り咲いた。以後長らく社会主義陣営の中心地として、その威容を世界に誇示してきた。
クレムリンの中に皇帝の大砲がある。実は一度も発砲されたことはない。また鐘の皇帝も未完成のまま、鋳造中に火事が発生し水をかけたため、鐘にひびが入って一部がかけ落ちてしまった。従って一度も鳴らされたことがない。かつて、コンピュータを使って鐘の音を再現してみたらしいが、あまりよい音ではなかったそうである。
国立歴史博物館は赤の広場に面して建つ、モスクワを代表する博物館。1872年にアレクサンドル2世の命によって着工、1883年にアレクサンドル3世の戴冠式に合せて開館した。原始時代からロシアの歴史が、順を追って展示されている。収蔵品は450万点にも及ぶ。
グムデパートはソヴィエト時代から、西側先進国の製品が購入でできる唯一の場所として、名を知られたデパートである。ソヴィエト崩壊から20年近く過ぎた今、その位置づけは大きく変わってきている。デパート内は特に目新しいものは少なく、特に印象には残っていない。
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