Images of エルサレム入城の日
ガリラヤ湖ほとりにて・・ ヾ(⌒▽⌒)ゞ【聖都エルサレム】と言う事で、 【イエス・キリスト】の 【エルサレム】での”道行き” を辿ろうと思います。 【イエス・キリスト】は、”ガリラヤ”で宣教を開始し、”12使徒”を選び、”ガリラヤ”を中心に宣教されました。 その期間は”2年~3年”と言われています。 【キリスト】の宣教は ”ガリラヤ”の湖畔町 【カペナウム】を中心に”ガリラヤ”周辺を中心に活動されました。 【イエス・キリスト】は多くの群集の賛同と支持を受け、多くの弟子達が従っていました。 【キリスト】が、当時”ユダヤ”の首都 【エルサレム】に向かったのは、最後の 【贖罪の御受難】の時のみとなります。 (【聖書】により) もちろん”ユダヤの祭儀【過ぎ越しの祭り】 【借り庵祭り】【七週祭】の折に、家族と共に 【エルサレム神殿詣で】などは記録されています。 【イエス・キリスト】が 【エルサレム】に ”メシヤ・ユダヤの王”として入場されたのは、 当時の【エルサレム神殿】にある【黄金門】からでした。 ここから、【イエス・キリスト】の【贖罪の受難】が始まります。 この【エルサレム入場】は、【十字架刑】の 6日前くらいだと言われています。 (マタイによる福音書21章8~11節) 『そして群衆は、イエスの前を行く者も、後に従う者も、こう叫んで言った。 「ダビデの子に、ホサナ。 祝福あれ。 主の御名によって来られる方に。 オサナ。いと高き所に。」 こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方はどういう方なのか。」と言った。 群衆は「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。』 この 【黄金門(ゴールデンゲート)】 は、【エルサレム】の【門】の中でも”最も美しい門”と言われ、以下の図のような位置にありました。 (キリスト時代の神殿復元図) この【エルサレム】自体 ”キリストの預言”通りに、AD70年に”ユダヤ戦争”により、【ローマ帝国軍】に破壊され、後長らく”東ローマ帝国(ビザンチン帝国)”の一部となり、 14世紀に”オスマントルコ”に征服されるまで続きますが、”イスラム教国オスマントルコ”に征服されてから、この”神殿”には、例の 【岩のドーム(黄金ドーム)】が建てられ、 現在に至っています。 (”神殿の壁「嘆きの壁」で”ユダヤ人”達が涙して祈る事は『エルサレム神殿の復興』であります。) (【嘆きの壁】は写真のように、”エルサレム神殿”の一部の【壁】であります。) 【黄金門】は”最後の審判の時、 再臨のキリスト”が、ここから 【エルサレム】に入場すると預言されている為、 ”イスラム教徒”によって封鎖されています。 (以下の写真は【黄金門】の後ろ。) この【黄金門】が閉鎖される事が、またまた 【旧約聖書】に預言されてまして、 【エゼキエル書 44章1節】 『 彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻ると、門は閉じていた。 主は私に仰せられた。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここからはいってはならない。 イスラエルの神、主がここからはいられたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。 ただ、君主だけが、君主として主の前でパンを食べるためにそこにすわることができる。彼は門の玄関の間を通ってはいり、またそこを通って出て行かなければならない。」” この【キリストのエルサレム入場】の時期ですが、【過ぎ越し祭り】(御受難の時期)が近いと言う事で、3~4月と考えられます。【エルサレム】はまだ夜間は冷え込む時期でありました。(早春) ここは【エルサレム神殿の門】だった事を考えると、これは【エルサレム】を牛耳っている 【大祭司・祭司達】【ヘロデ王】 【ローマ総督 ピラト】にとって、 かなり衝撃的な事件であった事が伺えます。 群衆が”彼らの王とし、ダビデの子、 力あるメシヤ”として【イエス・キリスト】を 【エルサレム神殿】に迎えた事は、 彼らを相当動揺させ、 ”キリスト抹殺”に向かわせる最大の動機と なった事でしょう。 その”記念すべき出来事”これが、 【キリストのエルサレム入場】 でした。その舞台が【黄金門】でした。 ここから 【主イエス・キリストの贖罪の御受難】が始まります。