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幸福なアラビア
-- ヨルダン・イエメン・シリア 中東綺譚 --
【期間】2002年4月27日〜2002年5月6日
【略号】日本航空(JL) Brith Airways (BA)ロイヤル・ヨルダン航空(RJ) イエメン航空(YE) 成田(NRT) ロンドン(LHR)アンマン(AMM) サナア(SAH) サユーン(GXF) ダマスカス(DAM)
ユネスコ世界文化遺産(WCH)
【行程】
4/27(土) BA006 NRT11:05—15:00 LHR
4/28(日) BA6705 LHR 16:15 -- 23:30 AMM
4/29(月) アンマン―ペトラ―ワディラム―アカバ ハイヤー
4/30(火) アカバーアンマン バス
IY641 AMM 14:00 -- 17:00 SAH
5/1(水) IY434 SAH 06:00—07:00 GX
IY817 GXF 15:30—17:15 SAH
5/3(金) IY642 SAH 08:00 --13:30 AMM アンマン―ダマスカス セルビス
5/4(土) ダマスカス マアルーラ ハイヤー
5/5(土) BA6710 DAM 07:30—12:30x.LHR
BA007 LHR 15:00—08:00+1 NRT
【費用】
? LHR-AMM // DAM-LHR-NRT (-HKG-ICN)
One World Explorer 4大陸2,438,300KRW
? NRT –LHR JL海外発AWARDの復路
? AMM-SAH-AMM YE-Apex @US$465
? SAH-GXF-SAH @US$150
? Amman—Petra—Aqaba @US$190 hire car
? Aqaba – Amman @US$6
【旅行代理店】
Al-Hani Travel [email protected]
Universal Touring [email protected]
☛ イスラムへの誘い
かつて駱駝に乗ってアラビア半島を旅した隊商たちは、この地域を3つに分けて喩えたという。
1つ目は「岩のアラビア」これは紀元前2世紀前半頃栄えたナバテア人達が住んだ岩山の険しい地域で現在のヨルダン、シリア地域である。
2つ目が「砂のアラビア」で半島中央部の砂漠地帯、現在のサウジアラビア一帯を指す。
そして3つ目が「幸福のアラビア」と言われ、乳香の産出と、モンスーンの風にのって遠くインドシナまで海の交易を広げ、その富を深めた、あのシバの女王の伝説を生んだ現在のイエメンである。
9月11日の事件の前に、私は今回の旅先を決めていた。 旅の猛者たちに、「今まで度肝を抜かれた国は何処?」と問えば、決まって、イエメンの名を挙げていたからだ。 しかしWTCの悲劇は、私にアルカイダの秘密訓練基地の在った、その国に向かうハードルを上げさせたのは確かだった。
今から12年前 私は中東を旅する計画をした。Webでの検索もE-mailも、またFAXさえ充分でなかった時代だ。 日本から中東へのアクセスとして未だ運行していたJALの南回り便を、そこから西半球はTWAでカリブ海のグランド・ケイマン諸島を回り、世界2大ダイビング・スポット行脚をしてからJLのNYC発便で帰る。 そんな事を考えて、両社がジョイントしたFirst Class世界一周航空券を購入した。香港発で、わずか26万円あまりで入手出来たにも拘らず、First Classの客への手厚い持成しが受けられた。日本航空はテレックスと現地駐在員の手配でシナイ山のベドウィンのガイドの手配に至るまで水も漏らさず準備してくれた。しかしイラクのクエート侵攻はその計画を一変させた。 ?
まず南回りJALエジプト便が運行中止になった。 これではシナイ半島まで辿り着けなかったので交渉してエジプト航空のファーストクラスに替えてくれた。 国連を舞台にした冷徹なイラク報復計画(湾岸戦争)は1月15日開戦と決められた。私はこの日までを中東旅行の安全賞味期間と捉えて、周囲の反対にも耳を貸さず、世界一周旅行を決行した。
紅海では米国海軍の停留する海底でダイビングをした。シャルムエルシェイクに家族で来ていたイギリス人の少年は12歳にして、パレスチナの不条理(それが自国のレアル・ポリティクスに拠る事も含めて)説明してくれた。シナイ山で元旦のご来光を仰ぎながら約束の地への不安を覚えた。エルサレムではシェラトンホテルのルームサービス嬢から防毒マスクの装着方法を教わった。ベツレヘムでは「パレスチナ人達にいつ襲われるかも知れない」と嫌がるTaxiドライバーに懇願して、生誕教会にも訪れた。しかしイスラエル・ヨルダン国境は閉鎖されてしまったので、「岩のアラビア」を目にする事は出来なかった。
11年の月日が過ぎて、私はまた世界一周航空券を買って、アラビア半島に向かった。 「イスラム」という未知の文化への恐れと好奇心を持って。
☛ 寝るだけのはずが、、
東京—ロンドン27 Apr
久し振りのロンドン。(私は昭和天皇の崩御の日、晴れやかなロンドンにいた。それ以来だ。)
ヒュースロー・エクスプレスにて、パディントンまで23分、そこからキャブに乗って、5ポンドでホテル・エドワード・リアに到着。ここは雑誌「time out」のWebsiteで一番リーズナブルな値段だったので予約した。 6畳くらいの細長い部屋。 踊り場にあるバスルームで入浴、洗濯する。 それからマーブル・アーチ駅から2回乗り換えてWaterLoo下車 判りにくい道をテムズまで歩いて、オリビエ・シアター着 途中雪が降る。私はロジャース・ハマンスタインの傑作郡の中でも取分け、、「南太平洋」が好きで小学生の折に始めて見たこのカラー映画でバリハイは私の桃源郷となった位である。そのミュージカルが寝るだけに寄ったロンドンの国立劇場でかかっている。(それも巨匠トレバー・ナンの演出で) 離日前から劇場のHPで調べていたのだが売り切れだった。ホテル到着後、電話してもキャンセルは出ていなかった。、、、しかし1人だけなら、、との期待で直接、 BoxOfficeに掛け合うと、キャンセルがやはり出ていた。 幕前にターキー・サラダとチーズ・サンドイッチでロンドンの夕食を取る。 7:15開演 半円形のオープン舞台で前から8番めくらいで見やすい席。 内側に貼られたカーテンに劇中映像や波の文様を映して美しい。伴奏はテープ。 出演者もそれなりに健闘していたが映画版のキャスト達を超えることは難しかった、帰路、露店の本屋でロンリー・プラネット新刊が山積み「yemen」を10ポンドで購入して帰宿。 12時就寝
☛ セント・マーチン教会からナショナル・ギャラリーへ
LONDON---Amman 28 Apr
4:30目覚めて、入浴の後、ハイドパークを散歩 7:00インターネットルームで友人に旅の便りを送る。朝日新聞のサイトでイエメンの首都サナアの米国大使館前での銃撃戦を知る。パレスチナでも惨劇があり、中東は、また緊迫を深めている。雑誌「旅行人」サイトのイエメン情報では邦人旅行者が相次いでイミグレで拘束されたとの最新報告もあった。
8:00朝食 同席したエストニア出身で米国スタンフォード大教授から小泉政権への評価を問われる。
8:45チェック・アウト 15番のバスでパディントン駅まで1ポンド、駅構内のBAカウンターでチェックインを済ませる。 地下鉄でチャリング・クロスまで行く。 セント・マーチン教会(WCH)の鐘に誘われミサに10−11:00まで礼拝に出席する 音響甚だ良し。 前夜18:30—20:30 BBCの公開録音あるのを知り残念だった。
ミサを早退して、目の前のナショナル・ギャラリー に入る。レオナルド 岩窟の聖母の裏に、カールトン筆「聖家族」展示 保存のため抑えた照明、完成していれば、まぎれもなく最高傑作だったろう。彼の筆は神の手かと感嘆。 その他、ラファエロ、ボッテチェリ、ジョット、ファン・アイク、フェルメ
?
ール、ティツィアーノ、レンブラント、ターナー、スーラ、セザンヌ、ゴッホ等に堪能。最高のロンドン観光だった。歩いてピカデリーまで行く。地下鉄でパディントンに戻り、ヒュースロー・エクスプレスにてターミナル4に12:50到着。BA6701 アンマン行き14:00離陸 ベイルートを経由して22:40 アンマン着 ゲートに迎えの者を捜すが見当たらず、やむを得ずタクシーでJerusalem Jewelに向かう。JD15が相場との由。真暗で寂しい広場(これがアブダリ?)4階のReceptionナイトポーターを起こしてチェック・イン。アルハニから電話あり、空港に迎えに行ったとの説明。明朝6:30に
ロビー合流と伝える。シャワーのみの簡素な部屋。 温水にならないので、フリースのまま24:30 就寝
☛ いざペトラへ
Amman—Petra—WadiRum—Aqaba 29 Apr
5:00起床 パッキング 6:30 ドライバー(モハメッド)来る。 出発 1時間後ドライブインにてベジタリックな朝食(玉子焼き薄いクレープ状、クリームチーズ、オリーブオイル付、パン、トマト、胡瓜、ピクルス、オリーブ)運転手と様々な会話(家族、行程、王室、シャロン、テロ、中東情勢で40%観光客減)10:00ぺトラ (WCH)入場料が11JDに値下げ2日目は15JD。すいていた。20分でシークに入る、日差しは熱いが、空気が乾燥しているので、風の冷たさが肌を和らげる。長袖シャツ、ベスト、帽子で丁度いい。15分程でシークの割れ目からバラ色の隙間が見えてくる。最後の狭いシークを抜けると、雅やかなファサードが目の前に現れた。
此れほどの世界遺産の傑作が人の騒がしさにまみえないで、対峙できるのも、この政治状況だからか? ローマ神殿、円形劇場、王の道、を巡る。
かなり広大。 途中 プロカメラマン装備のムハマッド君(サウジアラビア)と出会い、昼食(ビュッフェ4JD)を共にする。ナバテア、イスラム文明の面白さ、、それから旧約、新約、コーランへと続くイスラム史観を聴いた。彼が発した「シークエンス」というキーワードに興味をそそられる。東京のイスラムセンターに帰任しているラビを紹介される。 終点の僧院までの時間割を考えて、徒歩1時間の山道をロバを借りて登ることにした。(まけて3JD)あぶなっかしい足取りだが、険しい山道をヒョイヒョイと登っていくのが凄い。値引きは、キツカッタのか、頂上まで5分のところで、3JDはここまでと乗車拒否される。しかしロバ登山は面白かった。そこから歩いてエド・ディル着、大きいがエル・カズネの優美さ、保存度からは落ちる。麓まで降りてから今度はラクダにて、エル。カズネに戻る。
途中、砂絵瓶屋にて往路、頼んでいた名前を砂絵で嵌め込む瓶を馬上より急いで受け取る。( 息子の名前が1字違ってMORIRとはご愛嬌か) 4:00にMOVEN-PICK Hotelにてモハメッドと合流してワディラムに向かう。5:00エコツーリスム・センター前に到着 客は他に誰もいないので、20JD( 30$で1JDおつり)を払い、トヨタのランクルを貸しきって砂漠に向かう。ドライバーはベドウィン 観光地は地元民救済のため、それぞれ縄張りがある。ベドウィンの村の長の家に寄って、挨拶する。チャイ接待、部屋見学等の挨拶の後、砂漠に入る。走るうちに、赤褐色の砂漠の存在に飲み込まれて、清い感動が心を純化して行く。映画「アラビアのロレンス」の名シーンが髣髴として来る6:30 夕陽第一ポイントに到着。7:10落日 振舞われたミントティが旨かった。7:30エコツーリスム・センター8:20 そしてロレンスに遅れる事85年目にしてアカバに到達8:30Al Zaitouna Hotel 投宿9:00 洒落た海鮮料理のFloc にてワインと夕食 11:30就寝 ?
☛ 死海ドライブ
Aqaba—Amman—Sana’a 30 Apr
5:00 起床パッキング、入浴 7:00 朝食 7:30 Trsut Bas チェック・イン(アカバはフリーポートの為、税関検査、それが済んから乗車手続きがある。) 定刻出発 2階建てエアコンバス キングスハイウェィを通るので死海の青さを左側に見ながら北上、3時間45分、アラブ音楽の大音響の車内BGMで眠る事も出来ず、アンマン・トラストバス停に定刻到着。
☛ イエメン航空 (Yemenia)
往路15JDだった空港—市内間のTaxiの復路を聞くと6JDというのでそのまま向かう。11:50空港着(ターミナル2)絵葉書を5枚書き投函13:00チェックイン開始 セキュリティ厳重、イエメンビザもチェックして2:45にはゲートクローズ、、アナウンスされ慌てて、機内に飛び込む、背中でドアが閉まる。45分でベイルート着、17:00離陸、半島を3時間南下してイエメンの首都サナアに向かう。
機内食(サラダ、チキン、クスクス)イエメニア航空、旅行人掲示板で最悪のエアラインと評されていたが、どうしてどうしてまあまあだ。飲物だって パックのジュースが付いてくる。70年代に乗ったロシアの国内線では水しか出なかった。それに絶世のイエメン美人たちをチャドル無しで拝顔できるのは機内だけだからだ。
イエメン美人の魅力は先ずその涼しげな眼だ。凛としていて、どこかクールな色気を漂わせている。
肌が白いのも、スマトラやエチオピアとの長い民族交流の歴史から醸成された血のせいなのかも知れない。そんなことを考えている内にサナア(WCH)に到着。 戒厳下の入国、観光警察に拘束されないように、私はイエメン最大手の旅行代理店UniversalToulingからの招待状を準備していた。イミグレの向こうから、アンソニー・クインに似た男が私の方に手を振っていた。
☛ ハドラマート地方の古都へ
Sana’a—Shibam—Aden—Sana’a 1 May
3:30 起床4:00クイン氏来る 4:30空港着〜チェックイン 5:00空港外の食堂で朝食(チキンの細切れトマト煮込み、香辛料が効いていてとても美味しい。中東にきて初めての料理6:00離陸。空港にて、リーマン・パッカーの内海君と出会う。 セイユンを一緒に歩くことにする。 彼は真っ黒で髭ぼうぼうなので放浪旅行者かと思った。大きめのディパックに一眼レフと最小限の着替え、洗面道具で移動している。TYO-SIN-DUB-SAHと来て、先にホデイダ、ザビードの世界遺産を巡ってきたそうだ。
1時間でセイユン着、空港には私の名前を掲げてUniversalの出迎えが来ていた。注文してないが、とりあえずその車にのって市内のUniversalオフィスまで連れて行かれる。シバーム、タリムを廻って7000JDの提案を受けるが予算外とて退出する。 ここまでの送迎が得した。広場で絞りたての、クラッシュアイス入りレモンジュースを飲む。 大変うまい。乗り合いの場所に行き、先の行程を2人で2,000JDで交渉する。ガタガタの車に乗り、砂塵を上げて疾走すること30分位。 蜃気楼のように、その白い建築郡が見えてきた。
?
☛ シバーム 砂漠のマンハッタン
観光警察に見咎められないように、街中に入る。
(個人旅行者は地方に行くには許可証が必要) 迷路の城内をあてども無く歩く。別役実の童話にこんなシーンがあったような気がする。1軒の骨董屋で美しいジャンビーアを見初める。握りも鞘も銀製で格別に美しいので$120で手に入れる。 どうやって成田まで通過出来るか?と考える。
運転手のおじさんに急かされて出発。セイユンの東側に位置する古都タリムまで1時間で移動。 11:00着 ミナレットのあるモスクも図書館もクローズ(外国人だからか?)食堂を見つけて昼食。 チキン2羽、スプライト大瓶、カナダドライ、で350JD払う。内海君 安いと褒める。 彼は1泊する気で着たが、見尽くしたので、空きがあれば3時の便でサナアに戻るとの由。空港に12:30に着く。アデン経由の遠回りで6時サナア着 やはり涼しい。快適な町だ。 ジャンビーアは預けたので、短剣や拳銃を入れた鉄製の箱を係員が空港の外に持っていき、そこで開けて客たちが夫々引き取っている。 迎えのクイン氏の車で市内まで向かう。クインに送迎諸々を含めて20$分を3300JDで払う。宿舎に戻り,203から602に引越す。 バーバルヤマン周辺にて夕食、持参した赤ワインで又チキンを食す。
☛ 幸福なアラビアが残したもの
Sana’a旧市街 2 May
朝起きて602号室の眺望に感嘆する。7階(日本の8階)の展望室に上がり、アラブ式ソファーに座って、世界遺産のパノラマを飽きるまで眺めた。
【写真:目覚めたアラビアンナイトの都】
日本人用旅の情報ノートを読み、後に旅する者への配慮に感謝。10:00スークで骨董探訪。ジャンビーア凡庸な品ばかり、古都シバームで見かけたようなのは稀少らしい。「気に入ったものは、出会ったその時に買う」の鉄則を再確認。T字路を右折。100mで二又、角にある骨董屋、品揃え良し。インク壷、行灯などに心引かれる。遥か昔の栄華がこの国に類まれな美意識の工藝を残している。バーバルヤマンにて昼食の後ホテルに戻り、カートルームで午後の紅茶。4時 Universal Touringアリ氏の屋敷に招かれる。
白亜の邸宅に入って驚く。ル・コルビジェが影響を受けたシトー派の修道院建築のようだ。白く分厚い壁にイエメン式行灯の光が美しく巧みな陰影を与えている。 イエメン建築の美しさに開眼した。
☛ ハンマーム(銭湯)で爽快!
夜 宿に戻ってから、目前のハンマーム(銭湯)に行く。デポジットを支払い、地下の石牢の小部屋で蒸し風呂と垢すりを頼む。浴場内では大人はマナーとして腰巻(パレオのような)を着け、子供は下着のパンツでいる。私は子供扱いにしてもらった。石鹸やシャンプーは要持参。狭い中、全員の視線が私の体に注がれるがすぐに溶け込む。裸の付き合いに言葉や肌の色は関係ない。浴後 着替えの大広間で冷たい飲物で火照った体を潤す。 番台のおじさんが精算をしてくれる。(垢すりを含めて200位?)緊張感があったが、行ってよかった。爽快感・絶大 本当に一皮向けた感じで、ドーム型の浴場を出た。
☛ アラビア半島北上 ?
Sana’a—Amman—Damascus .3 May
朝4:00アザーンにて起床 洗面を済ませてから、真暗な階段を懐中電灯にて、スーツケースを運ぶ。 その後カートルームにて、ぼーっと旧市街の夜明けの風景を名残惜しんだ。5:30迎えが来ない。バーバルヤマンに向かいミニバンと交渉。1000で出発
6:05空港着チェック・イン7:00搭乗開始 中東では出発時刻とは離陸時刻と注意すべし8:10離陸11:30 ベイルート経由14:00アンマン着
☛ シリア越え
14:40アブダリ着 セルビス:乗合Taxi6JD(助手席は2人分請求され倍払う)シリア国内に入ると白い砂漠が切れて茶色の土や、オリーブ畑の緑が見られるようになり自然の違いに驚く。16:00国境 17:20ダマスカス着、Hotel IBADに投宿 暗いけど、交通便利。近くの名物チキン屋で200Rで夕食 ピクルス、香ばしい鶏肉をニンニク入りマヨネーズで食す。(初めて知る美味)ダマスカス美食の都なり
☛ パウロの足跡
Damascus—Maalula .4 May
【使徒パウロ】
6:00起床 イエスが話されたアラム語がまだ生きているマアルーラにTaxiで行った。朝日の中、爽快なドライブ7:10マアルーラ着 山間に清水が湧き凛とした地 聖テクラ教会 聖セルジウス教会 セイドゥナヤ教会 等のギリシア系キリスト教会を訪れて、驚くべき珠玉のイコンの数々に眼福を得た。
その後パウロの転向の地に立つ教会を訪れる。この荒野からローマまでは何と遠い道であったろう?聖書を開けて、福音書に語られた言葉を読んだ。
☛ イスラムの聖地にて (シークエンスの暗示)
ダマスカスに戻り、イスラム教の第三の聖地ウマイヤドモスク(WCH)を訪ねる。安置される聖ヨハネの遺骸に祈りを奉げる彼らを見てイスラム教とキリスト教、そしてユダヤ教も兄弟の信仰なのだと実感する。(事実オスマントルコの治世では、両信徒は共に、ここを礼拝の場として共有したと知る)
骨董屋にてハマーの手(マホメッドの妻で、その右手は幸を招くと云われシリアではドアのノブに使われている)、イコン2点を600$にて購入。他店にてイコン2枚を746$にて購入。真直ぐの道 古道具屋多し 聖アナニア教会で礼拝後、付近の店でダマスカス織りを購入
☛ 砂漠には素麺そうめんが似合う
Damascus—LONDON—TOKYO .5-6 May
3:00起床タクシーで空港へ。美術品の持出検査もなく。7:30出発ロンドン着12:30 BA007便に乗換え、ダマスカスから13,496km、19時間かかって翌朝8:00成田に到着した。家に着き、砂漠の中で、無性に食べたかった、素麺を作った。 麺を茹でながら考えた。あの土地で出遭った子供達もグローバル化で、いつの日か、こんな食べ物を口にする時が来るだろうか? それとも「足るを知る」あの人々は10年後もあの生活を守っているだろうか?
わずか10日あまりの旅で、何かが判ったなどとは云うまい。しかし、旅の始めに持っていた曖昧な恐れの代わりに、あの土地に暮らす人々の鮮やかな姿だけは、同じ地球に住む「仲間」として私の心にしっかりと根付いた。 いつの日か、息子を連れてもう一度あの土地を訪れてみたいと思った。
(世界遺産一周紀行 後編)