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泥鰌屋通信funoshujiのblog2019年08月東南アジア(湿潤熱帯)における地域の生態系に基づく住居システムに関する研究東南アジア(湿潤熱帯)における環境共生住宅に関する研究 Study on Eco-cycle House in South East Asia(Humid Tropical Regiouns)traverse19(新建築学研究)Shark and Crockodile ある都市の肖像:スラバヤの起源Shark andCrockodile ある都市の肖像:スラバヤの起源ShujiFuno布野修司 traverse18(新建築学研究) House without Walls – Traditional Houses of Thai Tribes 壁のない住居-タイ系諸族の伝統的住居House without Walls – Traditional Houses of Thai Tribes壁のない住居-タイ系諸族の伝統的住居Shuji Funo布野修司 東南アジアを歩き出しておよそ40年、その最初の成果である学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究-ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年)-そのエッセンスをまとめたのが『カンポンの世界』(パルコ出版,1991年)である-を書いてからも既に30年になる。東南アジアの民家(ヴァナキュラー建築)については、『地域の生態系に基づく住居システムに関する研究』(主査 布野修司) (Ⅰ: 1981年,Ⅱ:1991年,住宅総合研究財団)以降、『アジア都市建築史』(布野修司編、アジア都市建築研究会,昭和堂、2003年:『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳,中国建築工業出版社,2009年)、『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年:『世界住居』胡恵琴訳,中国建築工業出版社,2010年)などによって概観はしてきたけれど、ようやく独自に、『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』(布野修司+田中麻里+ナウィット・オンサワンチャイ+チャンタニー・チランタナット、京都大学学術出版会、2017年)をまとめることができた。「壁」を念頭に、そのエッセンスを紹介しよう。 R.ウォータソンは、その名著『生きている住まい-東南アジア建築人類学』(Waterson, Roxana (1990), 布野修司監訳(1997))で1章を割いて、ヨーロッパ人が、東南アジアの住居を見て如何に嫌悪感に近い違和感を抱いたかについて書いている[1]。住居は暗くて、煙たく、混雑しすぎで、天井や壁はすすで汚れ、隅には蜘蛛の巣がはり、床は鶏の糞やビンロウの実のカスで覆われ、アリやゴキブリやムカデやサソリが這いまわっており、床下には豚や鶏が飼われていて平気で残り物が捨てられ、不潔だ・・・云々は、さもありなんであるが、興味深いのは、住居そのものが死んだようにみえた、ことである。 タニンバルの住居の「足の上に屋根がかぶさるというというその形態」(Drabbe(1940))が「死んでる」ように思えたというのであるが、建物が「足」を持っていること、すなわち高床であることに違和感があった。そして、足すなわち高床の杭(基礎)柱であるが、それ以外は頭(屋根)だけで、顔と胴体すなわち壁がない、眼(窓)がない、というのが気持ち悪いのである(図①)。 「彼らの住居は、床と屋根以外なにもないが、とても巧妙な構造をしている…ほとんどすべてのものが、素晴らしい趣味と驚くべき技術でつくりあげられる彫刻によっていかに精巧に覆われているかをみたあと、…彼らが野蛮人であるのか。…野蛮人とは何か」(Forbes(1885))という極めて高い評価もあるけれど、ヨーロッパ人には、東南アジアの住居には壁がなく、従って窓もないことは、実に奇妙に思えたのである。 われわれが人類の地球規模の居住の歴史と世界中のヴァナキュラー建築を総覧することができるのは、P.オリヴァーの『世界ヴァナキュラー建築百科事典EVAW』全3巻(P. Oliver (ed.) (1997))を手にしているからである。一線の研究者・建築家によるA4版で全2384頁にも及ぶこの百科事典は,今のところ世界中の住居についての最も網羅的な資料である[2]。煉瓦造と木造(図②)の分布図をみれば、壁の文化圏は一目瞭然である。大きくみれば、東南アジアは木造の軸組(柱梁)構造の文化圏に属する。そして、高床式住居が一般的である(図③)。高床式住居は、さらに、西はマダガスカルから東はイースター島まで,東南アジア諸島全体,ミクロネシア,ポリネシア,そしてマレー半島の一部,南ヴェトナム,台湾,加えてニューギニアの海岸部にまで分布する。この広大な海域に居住する民族はプロト・オ-ストロネシア語と呼ばれる言語を起源としており、その語彙の復元によって、住居は高床式であり,床レヴェルには梯子を用いて登ること,屋根は切妻型であり,逆ア-チ状に反り返った屋根をしており,ヤシの葉で葺かれていたこと,炉はたき木をその上に乗せる棚と共に床の上につくられていたことなどが明らかになっている。 東南アジアの住居の起源については,ドンソン銅鼓(図④)と呼ばれる青銅鼓の表面に描かれた家屋紋やアンコール・ワットやボロブドゥールの壁体のレリーフに描かれた家屋図像によって窺うことができる。さらに,中国雲南の石寨山などから発掘された家屋模型や貯貝器(図⑤)がある。日本にも家屋文鏡(図⑥ABCD:Aは、いわゆる竪穴式住居であるが、屋根だけで壁はない),家屋模型が出土している。 東南アジアの伝統的住居は、以上のような図像に描かれた住居とよく似ている。木材を用いて空間を組立てる方法は無限にあるわけではない。荷重に耐え,風圧に抗するためには,柱や梁の太さや長さに自ずと制限があり、架構方法や組立方法にも制約がある。歴史的な試行錯誤の結果,いくつかの構造方式が選択されてきた。興味深いのはG.ドメニクの構造発達論[3]である。G.ドメニクによれば,実に多様に見える東南アジアの住居の架構形式を,日本の古代建築の架構形式も含めて,統一的に理解できるのである(図⑦)。G.ドメニクは,東南アジアと古代日本の建築に共通な特性は「転び破風」屋根(棟は軒より長く,破風が外側に転んでいる切妻屋根)であるという。そして,この「転び破風」屋根は,切妻屋根から発達したのではなく,円錐形小屋から派生した地面に直接伏せ架けた原始入母屋住居とともに発生したとする。この原始入母屋造によれば基本的に(構造)壁は要らない。東南アジアのような熱帯・亜熱帯の気候であれば、断熱のために密封する必要はないのである。北スマトラに居住するバタック諸族の住居の壁は垂木と床の側板で挟んだ板パネル(カーテン・ウォール)にすぎないのである(図⑧)。 「東南アジアの住居」というタイトルを冠しているけれど、特に焦点を当てているのは、タイ系諸族の住居であり、都市住居としてのショップハウスである[4]。タイ系諸族の起源については諸説あるが,最も有力なのは長江の南部から雲南にかけての地域を起源とする中国南部起源説である。タイ系諸族はもともと長江南部地域において稲作を生業基盤としていた。中国の史書に「百越」「越人」と記される民族がその先人と考えられている。前漢時代に,福建に「閩越」国,広東,広西,ヴェトナム北部に「南越」国を建てたのが「百越」「越人」である。中国でタイ系諸族が集中的に居住しているのは雲南である。タイ系諸族は,やがてインドシナ半島へ下り,稲作技術を東南アジアに伝える。このタイ系諸族の移動には,安南山脈の東側を下る流れと,メコン河の渓谷と盆地およびさらに西のサルウィン川に沿って下る流れの二つの大きな流れがあるが(図⑨),稲作が可能な低地を居住地としてきたことから,タイ系諸族は「渓谷移動民」と呼ばれる(Heine-Geldern, Robert(1923))。13世紀までに,タイ系諸族は,西はインドのアッサムにまで居住域を拡げている[5]。言語のみならず他にも「タイ文化」と呼びうる同じ文化を共有してきた。タイ研究者の所説を合わせると,伝統的なタイ系諸族は,①タイ語を話し,②仏教を信仰し,③一般に姓をもたない,④低地渓谷移動の稲作農耕民で,⑤「封建的」統治形態をもつ人々の集団といった共通の特性をもつ。①~⑤以外にも,⑥伝統的には高床式住居に住むこと,⑦親族名称について祖父母名称が4つあること,両親の兄弟について5つの名称があることなどもタイ系諸族の特色として挙げられる[6]。 このタイ系諸族がそれぞれ居住する住居は同じではない。その起源地における形態と移住していった各地域の形態はそれぞれ異なっている。その環境適応の諸形態、その諸要因についての解明が『東南アジの住居』の主要なテーマのひとつである。 タイ系諸族の原型と一般的に考えられるのは,その起源地と考えられている西双版納のタイ・ルー族の住居である。それは入母屋屋根の高床式住居で,一棟で構成され(「版納型」),屋根がある半開放的なヴェランダ(前廊),炉が置かれる居間(堂屋),寝室(臥室),そして高床下の4つの空間から構成される(図⑩)。そして,この4つの空間は,明快な連結関係をもっており,入母屋屋根の1棟を構成している。桁行方向と梁間方向のスパン数によってヴァリエーション (図⑪)があるが,ひとつの型として成立している。しかも,1棟からなる原型に加えて,複数の棟で構成される住居形式(「孟連型」)も西双版納で見られる。住居単位とその組合せのシステムが成立している。この空間構成システムはタイ系諸族の中でも極めて高度であり,タイ系諸族が,これを原型として,南下していったとは考えられない。「原型Architype」として考えられるのは,もう少しプリミティブな、もともと「竹楼」と呼ばれた簡素なつくりの,炉のある一室空間であった。「原型」に近いのは,ミャンマーのシャン族の住居(図⑫)である。「原型Architype」が1棟の住居のかたちで具体化した住居形式,「基本型Prototype」のひとつが「版納型」そして「孟連型」である。 炉のある1棟1室の「原型」が,寝室が分化することで一定の形式「基本型」が成立すると,様々な「変異型Variant」が派生する。「基本型」からさらに炉のある居間から厨房が分化していくことになる。一般に見られるのは「基本型」の増築というかたちで厨房部分を分離していくパターンである(V1)。そして,やがて厨房棟として独立することになる。すなわち,厨房棟を別に設けて2棟(母屋棟と厨房棟)からなる住居形式が成立する(V2)。この2棟からなる分棟型は,東北タイのタイ系諸族に見られる。また,寝室の拡張や付加も「基本型」を増築すること一般的に行われる(V3)。そして,さらに多くの住棟で住居を構成するパターンが成立する(V4)。その代表がシアム族の住居形式である。一定の住居類型というのではなく,地域によって様々な住居類型を生み出す一次元上の空間構成システムがシアム族の住居形式である。シアム族の住居では、高床上の大きなテラスを中心に生活が展開される。基本的に、①ルアン・ノーンRuean Non(住棟,寝室棟)、②ラビァーンRabeang (ヴェランダ)、③チャーンChan(テラス)、④ルアン・クルアRuean Krua(厨房棟)、という4つの空間から構成される(図⑬)。多くの事例を省略したのでいささか舌足らずであるが,第一に指摘できるのは,炉を居室に置く「原型」に近い住居形式が山間部,5つの大河川の上流部のみに見られることである。また,西双版納においては,現在も炉を置く居室が維持されていることである。そして,丘陵部からデルタ部にかけては,寝室棟と厨房棟を分離する住居形式がみられることである。すなわち,ヴェランダ,テラスが増え,住居がより開放的になることである。言うまでもなく,この変容は寒冷な気候から蒸し暑い気候に対応するためである。第二に指摘できるのは,山間部に比べて,下流部では建築材料として小径木の樹木しか利用できないことである。それ故,1棟の空間単位が小規模で,「基本型」のような住居形式を1棟では実現し得ず,1棟の空間を連結させたり,複合化したりする方法が採られるようになるのである。 タイ系諸族の住居形式の原型,伝播,変容(地域適応),地域類型の成立の過程はおよそ以上のようであるが、「壁」のウエイトは総じて軽い。バンブーマットがしばしば用いられることがそれを示している。ポーラスで大きな気積の住居が成立したのは熱帯・亜熱帯の環境が大きい。精緻な開口部のディテールを発達させる必要はなかったのである。[1] 「2 建築形式の知覚:土着とコロニアル」(布野修司監訳:生きている住まい-東南アジア建築人類学(ロクサ-ナ・ウオ-タソン著,アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropologyof Architecture in South-East Asia,学芸出版社,1997年).[2]『世界ヴァナキュラー建築百科辞典EVAW』全3巻(EVAW(P. Oliver (ed.)(1997)))は,地球全体をまず大きく7つに分け,さらに66の地域を下位区分している。下敷きにされているのは,スペンサーSpencerとジョンソンJohnsonの『文化人類学アトラスAnthropological Atlas』,ラッセルRussellとナイフェンKniffenの『文化世界Culture World』,G.P.マードックMurdockの『民族誌アトラスEthnographical Atlas』,そしてD.H.プライスPriceの『世界文化アトラスAtlas of World Culture』である。加えて,ヴァナキュラー建築の共通特性を考慮すべく,地政学的区分と気候区分を重視している。そして,北から南へ,東から西へ,旧世界から新世界へ,というのが配列方針である。概念的には,文化の拡散,人口移動,世界の拡張を意識している。地中海・南西アジア(Ⅳ)を中核域と考え,いわゆるヨーロッパ(Ⅲ),そしてアジア大陸部(Ⅰ),島嶼部・オセアニア(Ⅱ)を区別した上で,ラテンアメリカ(Ⅴ),北アメリカ(Ⅵ),サハラ以南アフリカ(Ⅶ)を区別する構成である。[3] G.ドメニク:構造発達論よりみた転び破風屋根-入母屋造の伏屋と高倉を中心に-」(杉本尚次編(1984))。[4] 本書を「東南アジアの住居」と冠することにしたのは,この間一貫してお世話になってきた京都大学学術出版会の鈴木哲也さんの,個別専門分野でのみ通用する議論ではなく、骨太の議論が欲しいという示唆が大きい。また、東南アジアの住居集落に関する著作として今のところ最も優れたと思われる上述のR.ウォータソンの『生きている住まい―東南アジア建築人類学―』が大陸部についての記述が薄いというのも大きい。[5] 現在は,主にブラフマプトラBrahmaputra流域(インド),サルウィンSalween流域(ミャンマー),メコン流域(中国・タイ王国・ラオス),紅河流域(ヴェトナム),チャオプラヤChaoPhraya流域(タイ王国)の5つの流域に居住している。[6] しかし,以上は必ずしも全てのタイ系諸族にあてはまるわけではない。姓(③)に関しては,1930年代までのタイ系諸族に関しては妥当であるが,今日,タイ王国やラオス国に住むタイ系諸族は姓を用いている。統治形態(⑤)についても,タイ,ラオスのような国家形態をとるタイ系諸族に対してはもはや当てはまらない。仏教(②)についても,タイ系諸族の中には非仏教徒が多数存在する。ラオスの北部山地,ヴェトナム山脈以東ないしは以北に住むタイ諸族(黒タイー,白タイー,トー,ヌンなど)および中国南部のタイ系諸族のほとんどは仏教徒ではない。南タイのタイ人の多くはムスリムである。traverse17(新建築学研究) Cities of Alexander the Great アレクサンドロスの都市Cities ofAlexander the Greatアレクサンドロスの都市Shuji Funo布野修司 はじめに『世界都市史』の執筆依頼を受けて、アジア三部作(『曼荼羅都市』『ムガル都市』『大元都市))を上梓して次はと思っていたから、一気に書き出して、さすがに待てよ、と思った。人それぞれに人生があるように、世界中の都市にそれぞれの歴史がある。本の骨格を彩る形でColumnとか、囲みで、都市を紹介したいと思ったのが運のつきであった。いっそのこと『世界都市史事典』(仮)にしたほうがいいということになって、総計1500頁を超える企画になった。二分冊になるという。その全体を紹介したいのだけど、紙数が限られるというから、ひとつの都市だけ紹介しよう。アレキサンドリアである。ひとつと言ったけれど、アレキサンドリアという名の都市は、一説に拠れば数十に登るという。エジプトのアレキサンドリアを中心にアレクサンドロス大王が建設した都市を、その大遠征の跡を追いかけながら見てみよう。 ハカーマニシュ朝ペルシアを倒したアレクサンドロスⅢ世(大王)(紀元前356~323年)は,その東方遠征中に,エジプトのアレクサンドリアをはじめとして,自らの名を冠した都市アレクサンドリアを各地に建設した。プルタルコス『対比列伝Vitae Parallelae』「アレクサンドロス伝」は70以上といい,古代ローマの地理学者ストラボン(紀元前63年頃~23年頃)(『地理書(誌)Geōgraphiká』全17巻)は8,ローマ帝国の歴史家ユニアヌス・ユスティアヌス(生没年不詳)(『ピリッポス史HistoriarumPhilippicarum libri XLIV』邦訳『地中海世界史』)は12とする。最も信憑性が高いとされるアリアノス(2001)を邦訳で読んでみると8確認できる。Fraser, P.M.(1996)は,諸文献から57の候補を挙げた上で,12の場所を同定している[1]。アレクサンドリアは,アレクサンドロスの軍事拠点都市であり,植民都市であった。既存の都市を拠点とした場合も少なくないし,70という場合は当然それを含んでいる。しかし,アレクサンドロス自ら計画した都市となるとそう多くはない。滞在は1年を超えることはなかったから,建設を見届けるということはなかった。森谷公俊(2000)によれば,新たに建設されたアレクサンドリアは,①エジプトのアレクサンドリア(アル・イスカンダレーヤ),②アレクサンドリア・アレイアAria(na)(アリアナ:現ヘラートHerat),③アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラーFarah),④アレクサンドリア・アラコシアArachosia(アラコシオルム:カンダハルKandahar近郊シャル・イ・コナ),⑤アレクサンドリア・カピサ(カウカソス(コーカサス):現ベグラム?),⓺アレクサンドリア・オクシアナ(オクソス:現アイ・ハヌム?),⑦アレクサンドリア・エスカテEschate(最果てのアレクサンドレイア,ホジェント,現レニナバード),⑧アレクサンドリア・アケシネス,⑨アレクサンドリア・オレイタイ(旧ランバキア:現ソンミアニ),⑩スーサ南部のアレクサンドリア(スパシヌ・カラクスSpasinou Charax)の10である。わずか16歳の時にマケドニアに設計したという⓪アレクサンドロポリスを加えると11である。以下,アレクサンドロスの東征の進軍経路を追いながら確認しよう。 オリュンポス山の北,テルマイコス湾に面した平野部を囲むピエリヤ山脈の山裾を拠点(アイガイ(現ヴェルギナ村))として紀元前7世紀半ばに建国したマケドニアをバルカン半島随一の強国に仕立て,半島とエーゲ海島嶼部の大半を版図に収めたフィリッポスⅡ世(位,紀元前359~336年)の王子として生まれたアレクサンドロス(紀元前356~323年)が側近に暗殺された父の跡を継いで王となったのは20歳の時である。 13歳になった時,父フィリッポスⅡ世が帝王教育のためにアリストテレスを教師に招いたことはよく知られる。アリストテレスは,王位についたアレクサンドロスに『王たることについて』と『植民地の建設について』という諭説を送ったとされる。興味深いことは,アレクサンドロスが王位につく以前,わずか16歳の時に,反乱を押えてギリシャ人を入植させ,自らの名を冠した都市アレクサンドロポリスを建設していることである。アレクサンドロスは軍事に優れ,あらゆる技術に精通した政治家であり,さらに建築,都市計画の才があったことは疑いがない。 王位につくと,アレクサンドロスはトラキアを押え,テーベを壊滅させて足元を固めた上で東方遠征に向かう。アレクサンドロスの東征は,紀元前334年の遠征開始から紀元前330年夏のダレイオスⅢ世の死亡によってハカーマニシュ朝ペルシアが滅亡するまで,紀元前330年秋の中央アジア侵攻から紀元前326年にインダス川を越え,ヒュファシス川で遠征を中止し反転を決定するまで,紀元前326年末から紀元前323年のその死までの三期に分けられる(図1)。 マケドニア軍は,首都ペラからアンピポリスに集結,東征に出発する。アレクサンドロスは船でトロイに上陸,グラニコスでペルシア軍と対決,勝利を収める。部隊は南下し,「王の道」の起(終)点,かつてのリュディア王国の首都サルディスへ向かい,途中,ギリシャ諸都市を次々に解放,民主制を樹立していく。頑強に抵抗したのはミレトスとハリカルナッソスであった。さらに南下,小アジアの南岸の諸都市を降し,内陸のゴルディオンに向かい,遠征1年で小アジアの西半分を支配下に収めた。 遠征2年目は,アンキュラ(現アンカラ)から南下,キリキア門でペルシア軍を突破,タルソスに到達,さらにイッソス湾に至って会戦,勝利を収める。紀元前333年晩秋,マクドニア軍はフェニキア地方に侵攻,大半の都市を開城させる。帰順を拒否したテュロスに対しては丸7ヶ月に及ぶ一大包囲戦の末に殲滅,さらに南下してガザも破って,紀元前332年晩秋エジプトの入口ペルシオンに到達する。 エジプトはアレクサンドロスを解放者として歓迎,聖都ヘリオポリスを経てメンフィスに至る。そして,川を下ってナイル・デルタの西端のカノボスに到達,都市建設を決定する。アレクサンドロス自ら計画図を引いたとされる。「彼は自分でも,アゴラは町のどのあたりに設けるべきか,神殿はいくつ程,それもどんな神々のために神殿を建立すべきか…,それにまた町をぐるりと囲むことになる周壁は,どのあたりに築いたらよいかなど,新しい町のためにみずから設計の図面を引くなどしたのである。」,そして,「これから築造される周壁のおおよその線引きを,自分の手で現場の技術者に残したいと考えたが,地面にその印をつけてゆく手段が身近になかった。そこで…大麦をあるだけ容器にとり集め,先に立ってゆく王が道々指示する場所には,その大麦を地面に撒いていく・・・」方法がとられた(アリアノス(2001)))。選地のために供犠が行われ神意が伺われるが,占師としてアリスタンドロスの名前が知られる。また,建築家はディノクラテスであった。カノボスには,マケドニア艦隊の司令官も合流,エーゲ海,東地中海の制海権は完全にマケドニアの手に帰すことになった。アレクサンドリアは,その後ヘレニズム世界最大の都市に成長していくことになる。アレクサンドロスは,エジプトの最高神アモンAmon(アメンAmen)を祀る神殿のあるリビア砂漠のシーワ・オアシスに参詣,神託を受けた後,メンフィスに戻る途中にアレクサンドリアの起工式を行っている。地中海に面したエジプトのアレクサンドリア(図2)は,「港市都市」であり,その後の発展も別格であり,バクトリア,ソグディアナに建設された軍事拠点都市アレクサンドリアとは性格を異にする。アレクサンドリアは,地中海に面するナイル・デルタに位置し,メンフィスと紅海,地中海を繋ぐ港に絶好の要所に位置した。北のもともと島(ファロス島)であったラース・アル・ティーン岬と南のナイル河と直接繋がるマレオティス湖の間の細長い土地に,グリッド・パターンの都市が計画された。東西のカノポス通り(現ロゼッタ通り)とそれに直交する南北のソーマ通り(現ナビー・ダニエル通り)が都市の骨格である。ファロス島へ向けて大堤防ヘプタスタディオンが築かれ,東の岬との間に大港がつくられた。実際にアレクサンドロスの計画が完成するのは,その死後,プトレマイオス朝になってからのことである。プトレマイオスⅠ世(紀元前323年より太守。位:紀元前304~282年)は,シーワ・オアシスのアモン神殿に運ばれるアレクサンドロスの遺体を略奪し,大十字路の交点に埋葬する。そして,学問,音楽,芸術の都とすべく大事業に着手する。プトレマイオスⅡ世(紀元前282~246年),Ⅲ世(紀元前246~221年)と引き継がれて,アレクサンドリアは絶頂期を迎える。ファロス島の東端には高さ120mを超えるファロス大灯台が建設された。新都の位置を示すランドマークであり,監視塔であり要塞でもある。建築家としてソストラトスが知られるが,彼は,エラトステネスとユークリッドの同時代人であり,数学,力学の成果物である。西の沿海部に宮殿群,官庁群のコンプレックスとして王宮があり専用の港をもっていた。そして,アレクサンドリアの名を後世に伝えるプトレマイオス朝の一大知的中心であった,広大な敷地に図書館,観測所,動物園,講堂,研究所,食堂,講演などが建ち並ぶ学園ムセイオンは,カノポス通りとソマ通りの交点,アレクサンドロ大王の廟の向かい側にあったとされる。中心神殿であるセラピス神殿は南西部に建てられ,劇場と競馬場は王宮のある北東部にあった。ディノクラテスの設計計画は,1世紀かけて完成するのである。E.M.フォスター(1988)は,周到な計画なもとにつくられた,ギリシャよりもギリシャ的な都市であった,という。プトレマイオス朝はその後衰退の一途を辿り,クレオパトラの死とともにローマの一属州の首都となる。ローマの支配(紀元前30~紀元313年)そしてキリスト教時代を経て,アレクサンドリアがアラブ人によって征服されるのは641年である。その後,アレクサンドリアが大きく変化するのは,12世紀であり,ナイル川の河口が土砂で塞がれ,マレオティス湖も埋まって船の航行ができなくなる。また,ヘプタスタディオンも埋まってファロス島が陸と繋がる。1517年にエジプトはオスマントルコに征服される。このトルコ時代はナポレオンの進軍(1798~180年1)まで続く。そして,今日に至るアレクサンドリアを設計計画したのはムハマンド・アリー(1805~1848年)である。アリーは運河を建設し,港湾を整備した上で,都市改造を行うのである。アレクサンドロスは,紀元前331年4月エジプトを発ち,フェニキアに戻って,内陸に向かい,ダマスクスを経由,7月末にユーフラテス川続いてティグリス川を渡った。そして,かつてのアッシリア帝国の首都ニネヴェの東20kmほどのところにあるガウガメラで決戦,ダレイオスⅢ世をエクバタナに敗走させる。ハカーマニシュ朝は事実上崩壊する。マケドニア軍は,バビロンに入城,さらにスーサ,そして続いてペルセポリスを占領,帝国の財宝を略奪接収して,ダレイオスⅢ世の滞在するエクバタナへ向かう。ダレイオスⅢ世は,東方に逃れて体制を立て直そうとするが,クーデターによって刺殺され,ペルシア帝国は滅亡する。アレクサンドリアは,ここでギリシャ同盟軍を解散,以降は,アレクサンドロス独自の東征が開始される。東征開始からハカーマニシュ朝滅亡までの進軍経路において,アレクサンドロスの名に因む都市に,アレクサンドリア・ニア・イッサス (後の時代にアレクサンドレッタと改称,イスケンデルン,トルコ),そして,バグダードの南にあるイスカンダリア(イラク)がある。イスカンダル Iskandar は,アラビア語・ペルシア語で,もともとアリスカンダールAliskandarであったが,語頭のアルal-が定冠詞と勘違いされ,イスカンダルとなった。アラビア語では定冠詞をつけてアル・イスカンダル al-Iskandar と言うのが普通である。kとsが入れ替わった理由は不明とされる。この2つの都市は命名のみで新たに建設されたものではない。アレクサンドリアが各地に建設されるのは,ペルシア帝国滅亡以降である。その建設は一般に東西融合政策の一環とされるが,実際は,それまで傭兵としてきたギリシャ兵の処遇が問題であり,植民都市建設の第1の目的は,彼らを住まわせ支配拠点とすることであった。アレクサンドリアの住民となったのは,地元住民の他,退役したマケドニア人,そしてギリシャ人傭兵であり,アレクサンドロスに反抗する不満分子を隔離する機能もあった。東方遠征を続けるアレクサンドロスは,紀元前330年末の冬のヒンドゥークシュ山脈に入り,カーブルに到達して冬を越すが,この間建設したのがカウカソスのアレクサンドリアという(5)。ハカーマニシュ朝ではカピサと呼ばれていた交通の要所にあった町を再建したとされる。アレクサンドリア・カピサは,後にグレコ・バクトリア王国,そしてクシャーナ朝の都となる。アリアノス(2001)は記述しないが,バクトリアのアレクサンドリアとされるのが,ヘラート(2),ファラー(3),カンダハル(4)である。ハライヴァと呼ばれていたヘラートの地に建てられたのはアレクサンドリア・アレイアである。ハライヴァはギリシャ語でアレイアAreia,ラテン語でアーリヤAriaである。セレウコス朝の支配下になり,パルティアを経て,サーサーン朝ペルシアに併合される。652年にイスラームの支配下に入り,ウマイヤ朝そしてアッバース朝のもとでは,東方イスラームを代表する交易都市として栄えた。12世紀後半,ゴール朝がヘラートを奪取し,事実上の首都となる。1221年と翌年,モンゴル軍が2度にわたってヘラートを襲っている。ヘラートは,徹底的な破壊を受けてほとんど廃墟と化したが,フレグウルスの地方政権となったクルト朝が首都とすることによってめざましい復興を遂げる。その後,ティムール朝がヘラートを征服し(1380年),ティムール死後,ティムール朝の首都となったことでヘラートは歴史上でもっとも繁栄した時代を迎える。16世紀に入ると,ウズベクのシャイバーン朝とサファヴィー朝の争奪に翻弄され,衰退していくことになる。アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラー)は,ヘラートからカンダハルへ回り込む道筋に位置するが,遺構の詳細は不明である。カンダハルの名前は,アレクサンドロスAlexandorosのxandorosが転訛したとの説がある。ペルシア帝国の属州アラコシアに建設され(アレクサンドロス・アラコシア),分裂後セレウコス朝の支配下に入り,マウリヤ朝のチャンドラグプタに割譲された。アショカ王在位紀元前268~前232年)の法勅碑文も残され,クシャーナ朝のもとで仏教文化が栄えるが,7世紀にはイスラームの支配下に入る。9世紀から12世紀にかけて,サッファール朝,ガズナ朝,ゴール朝に支配され,1222年にはチンギス・カンによって大モンゴルウルスの版図に組み入れられる。1383年以降,ティムール帝国に支配下に入るが,16世紀初頭にティムール朝の王子バーブルが南下してきて,カーブルを拠点とするムガル帝国を建てると,サファヴィー朝との抗争の最前線となる。18世紀末サファヴィー朝に変わってアフシャール朝が建つと,アレクサンドロス以来のカンダハルは徹底的に破壊される。18世紀半ば,ドゥッラーニー朝が建って,旧市の東5km離れた位置に新たな城塞都市が建設され,18世紀末にカーブルに移るまでドゥッラーニー朝の首都として使われた。ガズニーそしてバルフ(バクトラ)にもアレクサンドリアが建設されたとされるが,カンダハル,ヘラートも含めて,アレクサンドリアの当初の痕跡は残されていない。そうしたなかで,当初の様子がうかがえるのが,ヒンドゥークシュ山脈の北に位置し,アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria onthe Oxus)(6)に比定されるアイ・ハヌムAi-Khanoum, Ay Khanum)遺跡である。様々な工芸品や建築物,ギリシャ様式の劇場,ギュムナシオン,ポルティコに囲まれた中庭のあるギリシャ様式の住居の遺構などが見つかっている。アイ・ハヌムは,長さ約3kmの城壁に囲われており,中央の丘に城砦と塔が建っていた。また,数千人収容可能な直径約84mの円形劇場があり,ペルシアの宮殿を思わせる巨大な宮殿があった。ギュムナシオンも100m四方の巨大なものであった。セレウコス朝とグレコ・バクトリアの主要都市として存続したが,紀元前145年ごろに破壊され,その後再建されなかった。1964年から1978年までアフガニスタン考古学フランス調査団が発掘し,ロシアの科学者も発掘を行ってきたが,アフガニスタン戦争で発掘は中断し,その地は戦場と化したために遺跡はほとんど原形をとどめていない。アレクサンドロスは,紀元前329年春,カワク峠を越えてバクトリア地方に入り,ソグディアナへ向かう。中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは,ソグド人による激しい抵抗に直面し,スキタイ人の攻撃も受けている。遠征軍はタナイス(ヤクサルテス,現シルダリア)川に到達すると,そこに「アレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)(7)」を建設する。シルダリア川は当時アジアの果てと考えられていたのである。フェルガナ盆地を南西に流れてきたシルダリアが北西に流れを転じアラル海に向かう大屈曲地点に位置するこのアレクサンドリア・エスカテは,現在のタジキスタンのホジェンドに比定されるが,アレクサンドロスは将来のスキタイ侵攻の拠点として,防御の点で適していて,人口も多く発展性があると考えたとアリアヌス(2001)は書いている。アレクサンドリア・エスハテ(最果てのアレクサンドリア)は,もともとペルシア帝国の城砦が築かれていた,ギリシャ人がキロポリまたはキレスハタ(「果て」「最後の」の意味)と呼んだ土地に建設された。上述のように,タジキスタン共和国のソグド州の州都ホジェンドに比定されるが,その後,8世紀にイスラーム化され,ホジェンドと呼ばれるようになる。10世紀には,中央アジアでも有数の都市となったが,大モンゴルウルスの版図に入り,14世紀にはティムール朝の支配を受けた。アレクサンドロスは,紀元前327年,バクトラを出発していよいよインドに向かう。カウカソスのアレクサンドリアに数か月滞在,準備を整えた後,スワート溪谷などで抵抗する都市を徹底破壊し,紀元前326年にインダス川渡ってタキシラに入って王国の引き渡しを受ける。そして,ヒュダスペスの戦いでボロス王の大軍を撃破,戦勝記念に川の両岸に,ニカイア(現モング付近)とブケバラ(現ジャラルプール)という2つの都市を建設する。これがアケシネス河畔のアレクサンドリア(8)である。その後も周辺の諸部族を平定しながら進軍し,ヒュドラオテス(現ラヴィ)川を超えヒュパシス(現ベアス)川に達したところで,部下が進軍を拒否,進軍を断念するに至った。紀元前326年,新たに建設したニカイアから出発し,インダス川を河口まで大船団を仕立てて下っていく。デルタの先端部のパタラに着いたのが紀元前325年,ここからはネアルコスを指揮官とする沿岸探索航海[2]を別立てとし,自らの本隊は沿岸を陸行する。アレクサンドリア・オレイタイ(9)は,インダス川の河口部から,陸路メソポタミアへ帰還する部隊を率いたアレクサンドロスⅢ世が,当時のオレイタイ地方にあった大集落ランバキアを拡充させ,アレクサンドリアと命名したとされる。ランバキアの所在地は不明である。アレクサンドロスは,ガドロシア,マクラン両砂漠を横切るなど苦難の行軍を続け,紀元前324年1月ペルシア帝国の旧都パサルガダイ[3]に到着,さらにスーサに至る。スーサ南部にもアレクサンドドリアを建設したとされるが詳細は不明である。帰還したアレクサンドロスは,帝国をペルシア,マケドニア,ギリシャ(コリントス同盟)の3地域に再編し,アレクサンドロスによる同君連合の形をとる。そして,アラビア半島周航を目前に熱病に倒れたのであった。紀元前5世紀にある一定の段階に達していたギリシャのグリッド都市の伝統は,以上のように,アレクサンドロス大王の長征によって,アレクサンドリアの建設によって,東方に伝えられた。その具体的な形態は知られないが,ギリシャ風の都市計画,すなわちヒッポダミアン・プランが伝えられたことは大いに想定される。中央を幹線大路が南北に走り,それに直交して東西に小路を設ける魚骨(フィッシュ・ボ-ン)型の街路構成をとるパキスタンのタキシラにある都市遺構としてシルカップが知られるが,ヘレニズム期に属し,ギリシャ人の影響のもとに建設されたとされている。グリッド都市は敵国の領土に新たな都市を短期間に建設するのに適した形式であり,軍事都市の性格をもっていたアレクサンドリアは,おそらくシルカップのモデルとされたのである。 [1] N.G.L.ハモンド(N.G.L.Hammond(1981)”Alexander the Great;King, Commander and Stateman“,London)は18,P.M.フレイザー(P.M. Fraser(1996) ”Cities of Alexanderthe Great”,Oxford)は12という。[2] この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に,ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され,貴重な記録となっている。[3] ペルセポリスの北東87キロメートルに位置する,ハカーマニシュ朝ペルシアの最初の首都であり,キュロスによって紀元前546年に建設された。キュロスⅡ世の墓と伝えられる建造物,丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞,そして2つの庭園から構成される。建造物は2004年,庭園は2011年,世界文化遺産に登録された。