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「欧米で近く攻撃開始」 パキスタンのタリバン運動(2010.9.4 09:56)
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100904/amr1009040958004-n1.htm
2000.5.8
フンザへの旅は初日にラワルピンディーからペシャームまで236kmペシャームからチラスまで206km、合計442kmを実走行時間9時間で踏破しようという長丁場のバスによるドライブで始まった。
バスに乗り込もうとホテルの前へ出て最初に目に入ったのは、銃を肩にした二人の兵隊である。警察かなと思ったが、銃を携帯しているのが物々しすぎるので軍隊かと聞いてみるとそうだと言う。何故軍隊がホテルの警備をしているのかと問うと、1999年10月の政変以来、軍部が主要なホテルや企業や政府機関に監視役として派遣されるようになったという。兵隊が目付役として駐在しているだけで、従業員の規律がよくなり、勤務中の私用や私話がなくなったし、賄賂が減って業務効率が向上したというのである。ガイドの話では検問所も軍隊が監視のため駐在するようになって、車がスムーズに流れるようになったし、民衆も今のところ軍事政権を歓迎しているという。政変以前のシャリフ政権の金権腐敗政治がそれほどまでに末端の規律を弛緩させていたとは驚きであった。シャリフ元首相は最近終身刑が確定したが、人の上に立つ指導者が堕落すると国を滅ぼすことになるという実例を見る思いであった。と同時に軍事政権がいつまでも続くと、ミャンマーや北朝鮮のような密告という人間のおぞましい性向を助長し、やがて民衆を新たな不幸に陥れるようになるのではなかろうかという危惧の念が頭を掠めた。
次に目に入ったのは赤や青色で派手に装飾した霊柩車の往来である。霊柩車と思ったのは実はトラックであった。走っているトラックはすべて赤、青、黄色、緑色などさまざまな色を使い、思い思いの絵柄で華やかに飾りたてている。しかもトラックは背高く荷物を積載しており、過重積載ではないかと思われるほどである。また小型トラックの荷台には人を満載し、後部バンパーを加工した踏み台にも人が立ったままでぶら下がっているだけでなく、天井にも何人かへばりついている。
バスはペシャーム目指して出発した。走っている道路の両脇にはユーカリの木が植えられている。この道はマルコポーロも通った絹の道であり現在はカラコラムハイウエイと呼ばれている。この道路は北京からカラチまで7,520キロメートルを結んでいて、1976年に全線開通した。開通までに十年を要した大工事であったという。
このカラコルムハイウエイをひたすら北上し、バットグラムと呼ばれる集落あたりまでは比較的平坦な道が続き周囲に広がる田畑は緑豊かである。ハイウエイとはいうものの、舗装が施されているというだけの道でところどころ穴があき、補修も完全には行われていないがたがた道である。往復一車線宛のこの道路は専ら自動車が走行しており自転車やモーターバイクは殆ど見かけられない。たまに農業用トラクターが走行していることもあるが一番多いのは満艦飾に飾ったトラックである。たまに山羊や羊の群れが悠然と道路を歩いていることもある。行き交うスズキと呼ばれるタクシーには鈴なりのものもあれば、スカーフを被って顔を隠した若い女性が幌の陰にひっそりと、相乗りしているものもある。スズキとはスズキの軽トラックのことであるが、この国では荷台に腰掛けを取り付けて幌を被せ、人員輸送のために転用されているタクシーを意味する。
二時間ほども北へ向かって走行し、バットグラムの集落を過ぎた頃から道路は次第に山道に入り、周囲は松の木がまばらに生えている山の風景に変わる。やがてインダス河と合流し、河岸を曲がりくねりながらも、どこまでも北へ遡及していくにつれ、道は険しくなっていくが、川沿いに河岸段丘が開けてきて、河の両岸に丹念に手入れされた棚田が現れる。ここはパターンと称される集落である。棚田には水が張られて光っているものもあれば、麦が実って黄色く光っている畑もある。田植えが終わって青々と繁っている水田もある。何枚もの小さな区画の段々畑が山腹を扇状に広がっていく景色は美しい。しかも青田ではスカーフを頭から被った女性が草取りをしていたり片方で水牛二頭に鋤を引かせた農夫が水田を耕していたりするかと思えば、他方では農夫が畑を鍬で耕していたりする。日本でも50年前には見られた長閑な田園風景が静かに息づいている。瀬戸内海の島々で一昔前に見られた段々畑以上にアジア的な高度集約農業の原風景が残っていた。この集落では手前の道路から河を隔てた対岸の道路までおよそ一kmほどの距離にワイヤーを張り、籠をぶら下げて人員輸送をしている。6人が定員の村営ロープウエイである。ロープウエイの下には河岸段丘の棚田が広がっている。
パターンの集落を過ぎると次第に周囲の様相が厳しいものに変わってくる。インダス河は断崖の遙か下を激しい勢いで流れており、周囲の切り立った山々には草木一本生えていない荒涼たる光景に変わる。しかも水の色は丁度セメントを水に溶かしたような灰色をしており、岩石に激突して泡立つ波の色さえ灰色である。更に通っている道路は岩盤を爆破して切り開いたもので、頭上の岩盤にはひび割れが生じていて、今にも巨石が落下してくるのではないかという恐怖にかられる。その上、道幅は狭く路肩が崩れている箇所さえあるので、対向車と行き違うときには思わず手足に力が入り、冷や汗が背筋をしたたり落ちる。
インダス河とは当地で使われているウルドウ語で「危険な河」という意味の通り、河の流れはとても速い。不思議なことに河が流れているにもかかわらず、河岸には緑が見当たらない。インダス河には魚さえも住んでいないというから不可解である。何故かと同行の人達と議論になったが、微粒子を含んだ水では魚も鰓に砂が溜まり呼吸ができなくなるからではないかという結論に達した。またこの河には危険で渡し舟も使えない。
このカラコルムハイウエイでは軍隊から派遣された兵隊が二人一組でブルトーザー1台を守って野営しているのを目撃した。崖崩れが生じたときには直ちに駆けつけて応急措置をとるためだという。ことほど左様に崖崩れの多い道路なのである。
たまに道路沿いに生えている街路樹は植樹されたもので、水の少ない場所に強いディヤァールという木である。
草木の全然生えていない荒涼とした山岳と遙か断崖の下を激しく流れるインダス河を窓外にみながら進んで行くと突如として、緑の段々畑が現れ立木も何本が立っていて、石組みと土で作った民家が畑を見守るロケーションでうずくまっている場所が現れる。砂漠でいうオアシスである。
緑地と荒蕪地を交互に眺めながら高度は次第に上がって行く。
やがてパキスタンでは第二に高い山ナンガーバルパット8125mが見えてきだした。
ところで、パキスタンで一番高い山はK2の8611mであるが、この山はエベレスト8848mに次いで世界第二の高峰である。パキスタンには8000m以上の山が57山もある。6000m以上8000m未満の山が105で、4000m以上6000m未満では600もありこの中には名前のついていないものがかなりあるという。まさに高山王国である。
チラスのホテルでは久しぶりに充分の睡眠を取り、朝8時半にはフンザへ向けて243kmの旅程を五時間で走破する予定で出発した。窓外に見える光景は昨日とあまり変わらない。
時に切り立った山間の谷を流れ落ちてくる雪解け水の流れは、色も澄んでいて白い泡をたてていた。この流れがインダス河に流れこむ箇所だけは色が青くなっているが、すぐに灰色に呑み込まれてしまうのである。また荒涼とした岩肌の山の中腹に鉢巻きを巻いたように緑色の帯が横に長く延びているのが見えることがある。これはパイプラインを敷設して送水している所だという。パイプから漏水して植物が育っているのである。このような景色を見ると水が如何に植物にとって大切なものであるかが如実に理解できる。
緑地と荒蕪地が交互に現れる光景を見やりながらフンザ目指して高度はますます上がって行く。
そのうちインダス河にギルギット川が合流する地点に到着した。ここはカラコルム山脈の山中を源流とするギルギット川とヒマラヤ山脈の山中を源流とするガンジス河が合流してガンジス河一本に合体する地点である。北に向って右側にはヒマラヤ山脈、中央にはカラコラム山脈、左側にはヒンドゥクシー山脈が三方向から競り合っている地点でもある。天気は晴朗で空は抜けるように青く、外気温は四十度近いが空気は乾燥していて汗をかかない。高度は1500m位であろうか。この地点で暫し休憩してから険しい道を走行するうちに木立が現れ、やがて小高い山に星と月とマルコポーロシープの絵模様が刻まれているのがみえるようになるとギルギットの集落である。ギルギットの町には小さな飛行場もあり山中の交通の要衝になっている。ギルギットの町中をしばし散策してから再び車中の人となりフンザへ向けて出発した。
途中ラカポシビューポイントで小休止した。この地点の海抜は千八百mであり、高さ7788mのラカポシ登山のペースキャンプが敷設される集落内にあるビューポイントである。実際のベースキャンプはこの場所より更に600mほど下った海抜1200m地点に敷設されるので、登山家にとっては実登山距離が世界一高い山になるということである。天気は快晴で美しい山の姿に暫く見とれていた。氷河らしきものも山の裾に遙に見えている。
再び高度を上げながらバスはフンザへ向かって進んで行く。次第にポプラの木が多くなり杏の畑が山腹に開けた所がフンザ地方のカリマバードであった。既に高度は2500mになっている。宿泊したビューホテルはインダス河の岸に近い所であるが、屋上に上がって見渡せば四囲の山々を展望することができる絶好のロケーションである。今宵は桃源郷でどんな夢を見るであろうか。
カリマバードのホテルの屋上から四囲を眺めると北側にはお結び型のフンザピーク、細く尖ったレディスフィンガー、雪を被って尾根が波うつウルタル一とウルタル二。東に目を転じれば遙か遠くに、雪を被ったなだらかな姿を見せるパタレーピーク。南にはちょっとだけ顔を出したゴールデンピーク、デュラーレン、ビューティースリーブ。西には右下がりの尾根の見えるラカポシと目立つものだけ拾ってもこれだけある。このほかに名もない山々が群集しているのが眺望できる。南側の山々の麓は剥き出しの岩肌を見せ、切り立った断崖の下に広がる砂原にはインダス河が激しい水勢で流れている。そしてゆるやかなスロープになった段丘にはポプラの林や杏林と麦畑が広がっている。よく見ると灌漑用水路が四通八達しているのが判る。このような山岳地帯ではたゆみなく水の管理が丹念に行われているのである。人の営為があってこそ豊かな緑が維持できていることが判る。人々は坂道をとことこ歩いていて自転車やモーターバイクに乗る人はいない。今は緑一色であるが、杏の花の咲く頃はまさに桃源郷であるに違いない。
ホテルの洗面所で水を出してみて驚いた。灰色なのである。いくら放水してみても色はそのままである。備え付けのタオルは薄炭色に染まっている。これがフンザの普通の水である。現地の人達はこの水で顔を洗い、野菜や食器を洗い、洗濯をして生活しているのである。流石に飲み水だけはこの水を貯めて長時間かけて沈殿させ、上澄みを用いているようである。蛇口からふんだんに透明な水を何時でも利用できる日本人には想像を絶する体験であった。ここでは水とはこんなものだと思いこんでしまえば顔を洗い、洗濯するのも苦にならなくなるものである。肌はすべすべしてくるし潤いが感じられる。流石に飲料にはミネラルウオーターを使った。試しに上澄みを沸かした湯でお茶を飲んだり、持参したウイスキーを割って飲んでみたが腹を下すこともなく却って体調も良くなった。フンザが世界でも有数の長寿村である秘密は案外この水にあるのかもしれない。
翌朝、外が白みかけるのを待ってカリマバードの町中を小一時間散歩した。斜面を上へ上へと上がって行くと道の両脇に商店が立ち並んでいるバザールがあるが、早朝なのでどこも店が閉じられていて人通りもなく静かである。四囲の山々は時々刻々その色合いを変化させて美しい。雪山に朝の光が部分的に当たって輝いていたり、明るい所と陰の所がくっきりと対比されたりしているが日の出と共に次々と色合いが変わっていく。
やがて道路には働きに出掛ける人々がそこここに現れ車が迎えにくるのを待っている。 ちいさな集落なのでそれはちらほらといった感じである。多分道路工事の人夫として稼ぎに行くのであろう。幌をかけたトラックが賑やかにホーンを鳴らして近づいてくると器用に飛び乗っている。
通りがかりに顔を合わせた村人には誰彼となく「ハロー、グッドモーニング」と挨拶すると例外なくにこっと笑って「グッドモーニグサー、ハウアーユー」と返ってくる。年輩の人でもそうである。イギリス統治時代の影響なのであろうか。帰りに十三歳の少年と道々話しながら歩く機会を得た。彼は綺麗な英語を話す。私の話すブロークンの英語をよく聞いていてV音やTH音を正してくれたりした。彼の言ったことの中で英国人は傲岸で怒りっぽいのに対して日本人は紳士的で優しいから日本人のほうが好きだといった言葉が印象に残っている。
ホテルに帰ってからジープに分乗し、フーパー氷河の観察に出掛けた。狭く急な坂道をジープが曲がりくねりながら進んでいくと高度はどんどん上がるし、切り立った崖縁を通る時には冷や汗が背筋を伝う。やがてナガールの集落に到着した。ここでは杏畑と麦畑が広がっていて畑では女性達が草取りをしていたり流れで洗濯をしたりしている。鍬で田を耕している老人の姿も見受けられる。ここではゆったりと時間が流れている。傍らでは子供達が大勢屯して水遊びしたり走り廻っている。我々のジープが止まると子供達は物珍しそうに美しい瞳を輝かせながら集まってくる。田園風景と朴訥な人情が四囲の山々と調和して実に長閑で心安らぐものを覚える。
ここからはレディスフインガー、ウルタル、ゴールデンピーク、シャルダルピーク等の山々がカリマバードのホテルの屋上から見たのとは違った角度と大きさで眺めることが出来、山の姿の多様な美しさに感慨一入である。ナガールで美しい山の景色をカメラに収めてから、ジープはフーパービレッジに到着した。ここにはヒルトンという休憩所が設けられていて、飲み物のサービスが受けられるようになっている。縄張りの外には現地の大人や子供の物売り達が手彫りの石の像やガーネットや水晶、青石等を手にして待ち構えている。
暫し寛いだ後、見張らし台に登ると眼下にフーパー氷河が広がっている。氷河とはいうものの色は薄黒く、丁度都会地に積雪後、雪掻きをして道路脇に積み上げた雪山が溶けかけてアスファルトの粉塵と混じり合い薄汚れているのと同じような色をしている。このカラコルム山系の地質がしからしむるところなのか、灰色の勝った氷河である。
フーパー氷河の観光を終え再びカリマパードへ戻ってきて、山の中腹にあるバルティット城を見学に行った。
この城は760年程前に築かれたフンザ土侯の居城で1845年まではミールと称される土侯が住んでいたところである。土と石で外回りを固めた城の中の部屋はジェニパルという名の木材が用いられており、この地方の一般的な住居の造りになっている。明かりは天井の穴からとるようになっており、冬寒く夏暑い気候に対処できる工夫がなされている。
フンザはフンザ渓谷の北部一帯を領域とする地域のことで1974年まではフンザステートとして内政の一切がミールに任されていてパキスタン領内の自治国であった。従ってフンザの人々はミールに対しては今でも絶大な敬意を払っており、特別な存在と見做している。現に新しい立派な宮殿にはミールが生活していて村人の相談事にも気軽に応じているという。ミールの経営するロイヤルホテルはフンザ第一の高級ホテルである。
フンザの人々はイスラム教徒であるがイスマイリー派と呼ばれる独特の一派でモスクを持たず、言葉もブリシャンスキーという独特のものを使っており、この言葉は周囲から全く孤立している。このためフンザの人々はアレクサンダーの遠征軍の末裔であるという伝説がある。住んでいる人々もギルギット付近の人達とはどこか異なった風貌を備えているように見えるし、フンザ人はなによりも誇りが高い。
フンザ地域の属するカシミール地方はその帰属を巡ってインドとパキスタンの間で紛争の種となりやすいがそれは以下のような歴史的な事情が背景となっている。
つまりイギリスの保護領であったカシミールは、1947年にインドとパキスタンがイギリスから独立したとき、住民の大半がイスラム教徒であったのに土侯がヒンズー教徒であったが故に帰属をインドとしたことから紛争が始まり、インド・パキスタン間に戦争が起こって国連の調停で休戦となったのである。暫定の国境線が決められたままの状態が現在に至っているのである。
翌日は更にカラコルムハイウエイを北上し、パスー氷河とバトゥーラ氷河を見学に行った。氷河に近づくにつれフンザ川の両岸にそそり立つ山々には大昔に氷河が崩落した跡と見られる砂地の扇状斜面があちこちに見られ、堆積したモレーン(氷河が押し出した岩石や砂が堆積してできた山)がそちこちに築かれている。そしてその扇状の斜面の下部の砂原を直角に削りとるような形でフンザ川が貫流している。やがて左側の山間に氷河が流れ止まっているのを見ることができた。パスー氷河である。この氷河もフーパー氷河程ではないがかなり薄汚れた色をしている。
さらに北上してバトゥーラ氷河を見に行った。1905年に河口が現在位置にまで動いて氷河の長さは47kmに及ぶと言われているが、氷河の河口はモレーンになっており、素人目には岩石と砂の小高い山にしか見えずこの下に氷河が潜りこんでいるとはとても思えない。ただそうかもしれないと思わせるのはモレーンの麓に小さな池が二つほどできていて透明な碧色をしていることである。これが氷河湖である。微粒子で汚れた水も溜められて時間の経過とともに微粒子が沈殿して透明な色になっているのであろうと推測される。カラコラムハイウエイは丁度バトゥーラ氷河の河口のモレーンの裾野を通るように敷設されたのであろう。実際の氷河を見るためにはこの巨大なモレーンを乗り越えて険しい山を登っていかなければ見ることができないという。
帰りにグルミット村で一般家庭を訪問する機会に恵まれた。石組みと粘土で作られた塀の中はさらに迷路のような道が入り組んでおり、粘土と石組みで築かれた家の中へは小さな潜り戸を通って入る。入り口を入ると天井に明かり取りのある20畳敷程の広さの部屋があり、絨毯が敷いてある。部屋の真ん中には畳二枚分程の土間があり、冬には火を焚ける設計になっている。天井の明かり取りは煙突も兼ねているようである。台所兼用の居間の壁には皿が何枚も飾られていた。このような部屋が大小取り混ぜて一つの家が構成されているのである。たまたま家長の老人が病の身を押して出てきて伝統の楽器で一曲民族音楽を奏でて歓迎してくれた。パキスタン人は大家族主義で、祖父母、親子兄弟、孫までが夫婦ともども一つ屋根の下で生活しているという。現代の日本人にはとても考えられない生活がパキスタンの田舎では現実に営まれているのである。訪問した民家の隣の家は女系家族で妙齢の娘達が十人近くも塀の中から顔を覗かせて、我々一行を物珍しそうに眺めていた。恐らく大家族内の姉妹、伯叔母、姪という関係にある女性達だろうと思われる。
フンザの旅は大自然に没入し、身も心も洗われる思いのする至福の一時であった。