Images of プウォツク
トルンはヴィスワ川沿いの琥珀の交易で発展した人口約20万人の街。1454年にトルン市民軍の蜂起で破壊された、ドイツ騎士団城跡がヴィスワ川沿いに残っている。ドイツ騎士団の根拠地の一つであった影響でドイツ風の建物の街並みで、ユネスコの世界遺産にも登録されている。
トルンは地動説を唱えたコペルニクス(1473−1543年)の生誕地として知られている。コペルニクスはクラクフのヤギェウォ大学で学んだ天文学者であり、聖職者でもあった。1530年頃に地動説の概説を友人に送り、1543年に地動説「天球の回転について」をコペルニクスの死後に出版している。一方、ガリレオ・ガリレイ(1564−1642年)が地動説を唱えたのは1609年だからコペルニクスの地動説の70年も後のことだ。ガリレオは1616年教皇庁から地動説の教授を禁止されたが1632年にも地動説を含む「天文対話」を出版したことから1633年にローマで宗教裁判にかけられ地動説を捨てることを強要された。有名な「それでも地球は動いている」の独り言を生み、以後もフィレンツェ郊外で監視付きの生活を余儀なくされている。ガリレオが公に弾圧されたのにコペルニクスに咎めが無かったのは、コペルニクスは友人にしか自説を伝えず、また出版も死後であったことで教皇庁の問題まで発展しなかったからだそうだ。それにしてもローマ・カトリック教会が天動説の誤りを認めたのも近年のことで、聖ヨハネ・パウロ2世を引き継ぐドイツ出身の新法王も保守的だと聞いた。社会主義体制を崩壊に追い込んだ聖ヨハネ・パウロ2世だが、同様に離婚を認めないなど非現実的な法典を堅持するローマ・カトリック教会は約6億人の信徒を擁する世界最大のキリスト教教会といえども、いずれ宗教改革の嵐になるのではないだろうか、とコペルニクスの生家を見学しながら考えていた。
(写真はトルン旧市街広場のコペルニクス像)
【ポーランドの旅、完】