Images of リッキー・スティムボート
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福岡市立花畑中学校時代から柔道を始める。東福岡高等学校卒業後、長州力に憧れ1985年6月にジャパンプロレスに入門、1986年2月16日に笹崎伸司戦でデビュー。長州が新日本プロレスに出戻るとそれに付き従い、1987年6月に移籍。前座戦線で鈴木みのると幾度となく対戦。これが後のライバル関係の発端となった。1991年秋に、馳浩とのタッグチームで当時新日本プロレスが業務提携を結んでいたWCWへ長期遠征することになっていたが、出発直前の試合で足を骨折(全治6か月と診断)、そのまま長期欠場を余儀なくされ、結局遠征そのものが取りやめとなってしまうというアクシデントに見舞われた。1992年に復帰。11月からはフェイスペイントを施した別キャラクター、パワー・ウォリアー(Power Warrior)に変身。ホーク・ウォリアーとヘルレイザーズを結成してタッグ戦線で活躍する。同年はWCWへの単発遠征も行い、アーン・アンダーソン、ダイヤモンド・ダラス・ペイジ、リック・ルード、スティーブ・オースチンらと対戦。12月の遠征時には獣神サンダー・ライガーとのコンビでリッキー・スティムボート&シェーン・ダグラスのWCW世界タッグ王座にも再三挑戦した。1994年11月23日に、茜ちよみの『ひたむきに ひたすらに・・・そして愛』のカップリング曲『縁は異なもの味なもの』で、茜ちよみとのデュエットでシングルCD・カセットをリリースしている。12月からは再び素顔の佐々木健介としての活動がメインとなり、1997年には第30代IWGPタッグ王座を奪取(パートナーは長州力)。また、8月にはG1クライマックス初優勝、第32代IWGPタッグ王座奪取(パートナーは山崎一夫)、さらに橋本真也を倒し第20代IWGPヘビー級王座に就き、史上初の新日本プロレスタイトル3冠制覇を達成した。2000年には1月4日の東京ドーム大会で2度目となるIWGPヘビー級王座を天龍源一郎から奪取、また同年のG1クライマックスにも2度目の優勝を果たしたが、これは1995年大会の武藤敬司以来2人目となる、IWGPヘビー級王者としてのG1制覇だった。同年10月には全日本プロレス代表として乗り込んできた川田利明と新日本プロレスの代表として対戦するも敗北し、IWGP王座を返上した。翌2001年1月4日の東京ドーム大会では前年に健介自身が返上し空位となっていたIWGPヘビー級王座の新王者決定トーナメントが開催され、決勝戦で川田と対戦して勝利し、前年10月の雪辱を果たすとともに3度目のIWGPヘビー級王座獲得を果たした。2004年度にはプロレス大賞MVPを受賞。この年、藤田和之からIWGPヘビー級王座を奪取したことが決め手となった。しかしこの試合では、技(チョークスリーパー)をかけつつ自ら後方に倒れこんだ藤田に対して3カウントを取るという不可解なレフェリングに疑問の声が挙がり、健介自身もリング上にベルトとトロフィーを置いたまま引き上げることで抗議の意思を示している。この裁定に妻・北斗晶は激怒。子供を抱えたままリングサイドにいた新日本プロレスのフロント陣を蹴りつけ、そのままインタビュールームに乗り込み、涙を流しながら「これが新日本のやり方か!? フリーだからと舐めるな!!」と叫ぶ 健介もトロフィーを廊下に投げつけて破壊し、ファミリーは早々に会場から引き上げた これらの言動を当時世話になっていた天龍源一郎から「子供に悪影響を与えたらどうするんだ」と諌められた。その後、天山広吉に敗れて王座から陥落。これ以降新日本に参戦することは無かった。全日本では小川良成(現:ノア)、新日本では飯塚高史が同年齢の同期にあたり、若手時代から互いに呼び捨てで接している。新日本プロレスが全日本女子プロレスと合同で平壌興行を行った際、当時全日本女子プロレス所属であった北斗晶に一目惚れし、帰国後に結婚を申し込む。北斗もこれを快諾し、異例の早さでの結婚となった。フィニッシュムーヴの一つであったノーザンライトボムは、もともとは北斗が考案しフィニッシュムーヴとしていたもので、結婚前後から健介もこれをフィニッシュムーヴとして使用するようになった。一方、北斗は現役時代に健介のオリジナルホールドであるストラングルホールドγを使用している。私生活では北斗晶との間に二子(長男・次男)を授かり、長男(健之介)は2022年4月に父の健介と同様に女子プロレスラーの門倉凛と結婚している。自身も若手時代には厳しい指導を受けている。「体格も大きくないし、格闘技経験も無いから、徹底的に練習させろ」という長州らの指示によるものであった。1995年1月に新日本プロレスの当時22歳の練習生がスパーリング中に脳挫傷で事故死した件について、メンズサイゾーでは健介が放った危険なスープレックスによるものとの記事を残している。一方で週刊文春が行った取材では、当時の合同練習に参加した選手の話として「みんなでスパーリングをしている時に頭を打ったのであって、健介はコーチとしてその場に居たが、何度も投げたりはしていない」との証言があったという 取材に対して健介は、「当時、コーチ(馳浩と佐々木健介)をしており、練習を観ていたので、管理責任がある 練習生が亡くなったことは忘れられない辛い想い出だ 」と語っている。1992年、アメリカ遠征中だった健介は、ロード・ウォリアーズのホーク・ウォリアーからの呼びかけでタッグチームを結成してパワー・ウォリアーと名乗った。同年11月9日、ミネアポリスでの小興行がデビュー戦で、日本には11月23日の新日本プロレスの両国国技館大会で初上陸(相手は長州力&馳浩組)。程なくスコット・ノートン&トニー・ホーム組を破りIWGPタッグ王座を奪取。1993年8月に奪取されるまで40連勝という、プロレス界の最高連勝記録を打ち立てた。このホークとのタッグはファン公募により、ヘルレイザーズと命名されて1990年代の新日を代表する名タッグチームとなった。
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