Images of ルーカス・サハ
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さてもちろん、いがみ合うばかりが家族ではありませんので、話をもとに戻しましょう。今夕食をご馳走になっているこちらのご家族、この場には同席していないけれど、もう1人、息子さんがいらっしゃるんだそうです。彼は大学生で、今はウラジオストクで寮生活をしているとか。
「息子さんが卒業したらヴェルホヤンスクへ戻ってきてほしいですか。」とオオノさんが尋ねると、ご両親の答えは「いいえ。」。なぜなら「この町には仕事がないから…。」というのです。やはりそうか、と残念な気持ちになりました。あらゆる経済活動が都市へばかり集中していくのが全世界で普遍的な現象なのはわかっていますが、ヴェルホヤンスクくらいは、その例外でいてほしかった。
しかし何てことでしょう。この町には子供がたくさんいます。300人もの規模の学校があって、素晴らしい教育水準の高さを誇っています。でも、そうして大学まで進んだ子供たちは、もうこの町には戻ってこないのです。こんな皮肉な結果を生むとわかっていながら、優秀な若者たちを輩出し続けるモチベーションは一体どうやって維持しているのでしょう。
何も辺境部に限ったことではありません。サハ共和国そのものが同様のジレンマに陥っていました。慈しみ育て、高等教育まで受けさせた人材は、結局は共和国の外へ流出してしまうのです。抗いがたしや、この道理。
そこでサハ共和国では実に大胆な政策でもって、この構造を制することを試みています。それは、サハ共和国出身の若者が大学に進学するとき、学費を共和国が全額負担する、というものです。もちろんそれだけでは単なるバラマキに過ぎません。この政策の肝心なところは、卒業したら最低3年間、サハ共和国に戻って働かなくてはならない、と定めていることです。
モスクワであれ、ウラジオストクであれ、どこでもよいから、とにかくよい教育を無料で受けてきてもらおう、ただし一定期間、その成果を故郷に還元させることを義務付けよう、そういう趣旨なわけです。もし3年の約束を守れないときは、授業料やその他の経済的援助の一切を全額返還しなければなりません。
この政策の効果や如何に。読者のみなさん、それでは目の前にいるもっとも身近な例をご紹介いたしましょう。サルダナさんです。サルダナさんはまさにこの制度を利用して、ハバロフスクの大学へ進学し、さらに日本へも留学、そしてヤクーツクへ戻って旅行会社で働いているのです。彼女は本当に優秀な方です。4つの言語(ヤクート語、ロシア語、日本語、英語)を自在に操りながら、最果ての町まで訪問客を案内できる人などそういません。これほどの人材が3年間以上、自国で活躍してくれるのです。直接お世話になった私が断言しますが、当地のインバウンド観光振興にすばらしい貢献をしていることは間違いありません。
そしてこのお宅の息子さんも、いずれサハ共和国に戻ってくるはずです。確かにご両親は、生まれ故郷のヴェルホヤンスクに戻ってほしいとは言いませんでした。でも、せめてサハ共和国の首都ヤクーツクに住んでほしいのです。きっとその通りになるでしょう。そういう意味で、この政策は、親心にもちょっとだけ、優しい。人の思惑はいつもばらばらな方向を向いているけれど、サハの政府はかなりいいバランスで、現実的な妥協点に到達できているのではないでしょうか。
ところで、この食事中の会話の中に忘れられないやりとりがありました。何かの会話の拍子にふと、ご主人が「共産主義の頃は…」と言ったところ、すかさず奥さんがら「あら、それを言うなら社会主義だわ。共産主義にはまだ到達していないもの。」と茶化したのです。このやりとりはロシア語でさりげなく行われたため、かえって鮮烈なインパクトがあって、私は瞬間に心を奪われてしまいました。どうしても気になることがあるのです、2点ほど。
その1。一体これが21世紀の家族の団欒で交わされる会話でしょうか。一昔前の学生運動ならともかく、現代の一般家庭ですよここは。ノンポリの私が言うのもおこがましいですが、最果ての町ヴェルホヤンスクで、まさかこんなマルクス主義が元気だった頃のようなやりとりを生で聞けるとは思ってもいませんでした。これはもう、ある種の無形文化財だと思います。
その2。ご主人の使った「共産主義の頃は」=「プリコムニズマ(при коммунизме)※」という言い回しです。これがどうも、まるで他所の国のことを話しているように聞こえるのです。
この言葉はアナトリーさんもよく使っています。例えばほら、ストルブィでバス停に出会ったとき、彼は共産主義時代にはバスが走っていた、と言いましたが(以前の連載参照。)、あれもプリコムニズマでした。
ロシア人ならばこういう時、「ソ連時代には…」=「ヴァ ヴレーミャ サヴェーツカヴァ サユーザ(во время советского союза)」と言う人が多いように思います。こう言うと、多少なりとも自分たちの国の、自分たちが作った歴史、という当事者意識があるように感じます。
でもプリコムニズマにはこの当事者意識が欠如しています。ヤクート人にとっては、共産主義体制下にあったことも、世界を二分する超大国の一部だったことも、他国の事件のとばっちりでしかない、というメッセージが強く感じられるのです。
自分の文章力の不足を棚に上げて申しますと、こういう違いは空気と皮膚で感じるもので、言葉そのものは主役ではないのです。だから、こうして文字にしてしまうと、伝えるべきニュアンスがほとんど失われてしまうのが、何とも、もどかしい。
真に畏るべきは、ヤクート人は単に過去を掃き捨てているばかりではなく、どうやら現在進行形でロシアを客体視していると見えることです。つまり今、ロシア連邦の一部であることや、ロシア語で会話できることさえも、自分たちには責任のない、一時的な情勢でしかないのです。昨日の天気はコムニズム、今日はロシア連邦、明日の天気はわからない…そう、まるで天気みたいです。
エリツィン時代には、サハ共和国は独立を宣言したこともありますが、プーチン以降は、敢然と反旗を翻したり、声高に独立を叫ぶわけではありません。でも、おそらくヤクート人はロシアに対して永遠に非服従なのです。それも、やって来くるならば受け入れて、去って行くなら見送るのみ、という、すこぶる無関心な形で。
居間にはテレビが点いていて、歌番組を流しています。 男女の司会が上品な語り口で進行する、華やかなステージが映っていました。ロシアには「ペースニャ・ゴーダ」という、日本でいえば紅白歌合戦に相当する国民的テレビ番組があります。よく似た雰囲気でしたが、一見して違う番組でした。何しろ全部、ヤクート語なのですから。男性司会者が、穏やかに、しかし力強くなにか言いました。その様子が印象的だったので、サルダナさんに意味を聞いたところ、「新年おめでとう、幸せな年となりますように。」という意味で、「サナ ディゥィリィナン、サナ ディォルナン(Сана дьылынан, сана дьолунан)」と言ったとのことでした。
こういうのがきっと、モスクワを苛立たせるんだろうな、と何となく思いました。何だかのびのびと楽しそうだけど、言葉がわからない、何やってるのかわからない、という様子を見せ付けられるのが、支配したい側には一番面白くないのです。反抗せず、同化されもせず、淡々とスルーされるのが、服従させたい側には最も恐ろしいのです。ロシア連邦は最近、地方行政の長を直接選挙から中央政府の指名に変えました。ある意味当然の反応でしょう。私がロシア連邦を治めていたならば、好む好まざるに関わらず、やっぱり同じことをせざるを得なかったかも知れない、そう思いました。
ところで、さっきからひっきりなしに電話が鳴るんです。このお宅。奥さんがそのたびに食卓を立って応対するので、会話が途切れます。来客中だから後でかけ直してもらえばいいのに、と思いませんか?ところがそうもいかないんですね。というのも、何と電話の内容というのが全て、「今ちょうどそこに日本人が来ているんだろう?どんな様子だ?」というものらしいのです。ようやくわかりかけてきました。今、私とオオノさんは、このお宅の客人だけれども、本当はそうじゃない。ヴェルホヤンスクという町そのもののお客さんとなって、みんなの食卓に招かれているんだ、と。ホテルの一件でも気づくべきでした。もう私達のことは、町中の話題になっているのです。そして気になったらすぐ電話しちゃう、好奇心を隠さない人たち。1つの町全体から、おもてなしを受けたのは、生まれて初めてです。いい夜だなあ。
しばし中座してお手洗いに立ったオオノさんが戻ってきました。お手洗いは一旦外に出る造りなのです。そしておっしゃるには、「空が光っている。もしかして…。」
そう、オーロラでした。<続>
※ при коммунизме の一般的なカタカナ表記は「プリ コムニズメ」、となるのでしょうが、ヴェルホヤンスクで耳にした発音は明らかに「プリコムニズマ」でしたので、あえてそう記します。これは現地の訛りの一種ではないかと思います。