Images of 一色義秀
上毛電鉄上泉駅から徒歩約10分、桃ノ木川の河岸段丘に沿った上泉城(かみいずみじょう、群馬県前橋市上泉町)は天文年間、大胡城主大胡氏の一族である上泉氏によって築かれたと言われています。
上泉城二の丸跡に立てられた説明板によれば次の略記が載っています。
「上泉城
戦国時代の赤城南麓地帯は、その大半が大胡領と言われており大胡領は「大胡氏」によって領有されていた。
上泉城は、大胡城の支城として築かれ、一族の「上泉氏」が在城していた。
城域は、東西600メートル、南北400メートルに達し、県指定の「郷蔵」付近に、本丸と二の丸の跡が残っている。また、西林寺付近は一の郭玉泉寺付近は出丸跡と推定されている。
中世の末期、剣道史に名を残した上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのかみ・のぶつな)は永正5年(1508)「上泉城」で誕生し、居住していたと伝えられている。
信綱は「新陰流」の祖で日本剣道史上の最高峰として、また「剣聖」ともうたわれ、その名は広く知られている。
新陰流の理と技は、柳生但馬守宗巌(石舟斎)らに伝えられ現在も脈々といきている。 上泉伊勢守顕彰・生誕500年実行委員会 」
更に上泉伊勢守について同委員会作成パンフレットには次の通り記載されています。
「『剣聖』と呼ばれた上州人
■新陰流を号す
新陰流の祖、上泉伊勢守は永正5年(1508)、上泉城主・武蔵守義綱の二男として生まれた。幼名を源五郎、後に伊勢守秀綱、さらに武蔵守信綱と改名する。
祖先は大胡氏の親戚にあたる京都の一色家、衰亡していた名門大胡家を再興した一色五郎義秀は大胡城を地元の大胡氏に譲り、康正元年(1455)、自ら約5キロ西の上泉に城を造り移り住んだ。これが上泉城であり義秀はその後、上泉姓を名乗った。上泉家初代であり伊勢守の曾祖父になる。
伊勢守は13歳で鹿島に赴き、松本備前守に入門。4年後に『鹿嶋神(傳)流』を伝授され第二世となった。
『中古、念流、新当流またまた院流あり、その外は計るに耐えず、予は諸流の奥源を究め陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す』と自ら書いている。伊勢守が生み出した新陰流は、載りあいを理論付け体系化したもので、当寺としては画期的なものであった。陰流を誰に学んだかについては何もふれていないが、愛洲伊香斎に学んだとみられており、新陰流の源流は愛洲陰流とされる。
■箕輪城・武田との攻防
当時の上州は北から長尾氏、西から武田、南から北条が進攻していた。藤岡には関東管領上杉氏が約120年間在城していたが、勢力の衰退とともに在住の勢力はそれぞれ新興勢力と通じるようになっていった。
伊勢守は公式には平井城の関東管領上杉氏の被官だった。最後の管領だった上杉憲正が越後に移住した後は、上杉方の三輪城主、長野業政と連携をした。その一方で、伊勢守の夫人が小田原北条氏にゆかりがあることから北条方とも連携をとっていた。
長野業政は約7年間の長い間にわたり数度に及ぶ武田勢の進攻を食い止めていた。だが、永禄4年(1561)11月に業政が没すると武田の攻撃は激しさを増し、ついに落城。業政の子業盛は19歳で自刃し家臣らも後を追った。落城の年代については永禄6年(1563)と同9年の二説がある。『箕輪町史』も両論を併記して落城の年代を結論づけていない。
箕輪城の攻防で伊勢守の武勇を知った武田信玄は再三にわたり伊勢守を招請した。しかし伊勢守は信玄の要請を固辞した。新陰流兵法をさらに修行し広めたいという気持ちがあった。同時にまた、武田に仕えれば新規召し抱えになるため、戦いになれば常に最前線で戦わされることも危惧したのではないか。
■『新陰流』弘流の度
伊勢守の武将としての人生はここで終わったが、他家に仕えないことを条件に武田信玄から新陰流弘流の旅に出ることを許された伊勢守は、兵法求道者として京に向けて新たな旅立ちをした。55、56歳のころだったと推定されている。伊勢守は伊勢の国国主で太の御所北畠具教卿から、畿内有数の兵法者として大和・柳生の庄の柳生石舟斎宗巌の名前を知る。3日にわたる3度の試合に手もなく敗れた柳生石舟斎は伊勢守に師事。永禄7年(1564)、宗厳に請われ、柳生館で新陰流を教えていた伊勢守は嫡子秀胤が討ち死にしたとの報を受けた。いったん柳生谷を離れるが、翌年、再び柳生を訪ね同8年卯月、柳生石舟斎に新陰流を印可相伝、さらに同年8月には宝蔵院胤栄、同12年には丸目蔵人佐にも院可を与えた。」(一部抜粋)
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