Images of 三宅右近
父は和泉流十九世宗家和泉元秀で、本人は父の死後に和泉流二十世宗家を名乗ったが、和泉流職分会・能楽協会・能楽宗家会は彼を宗家と認めていない(詳細は後述の#和泉流宗家継承騒動を参照)。東京都板橋区出身。血液型A型。身長は171cm。明照幼稚園年少部、青山学院幼稚園、青山学院初等部、青山学院中等部・高等部を経て、1993年、青山学院大学文学部日本文学科に入学。2001年3月に卒業。和泉宗家取締役、和泉流宗家宗家会在籍。妻はタレントの羽野晶紀。2児の父。1995年、父の死後に「和泉流二十世宗家 和泉元彌」を名乗った。ただし能楽協会・能楽宗家会・和泉流職分会は彼を宗家と認めていない(後述の#和泉流宗家継承騒動を参照)。かつて中絶した和泉流宗家を誰が継ぐかを巡って、三宅藤九郎家の長男(元彌の父・元秀)と野村万蔵家の四男との間で争いがあったが、元秀が後を継ぐこととなり(当時6歳)、19世宗家となっている。元秀は実弟の三宅右近(9世三宅藤九郎の次男)に対して破門騒ぎを起こしたり、流内の反対を押し切って長女・淳子と次女・祥子を狂言師とした上、祥子に10世・三宅藤九郎を継がせたりするなどし、物議を醸していた。1995年6月22日、元秀が公演中に倒れると、和泉家は親子で出演を予定していた27〜29日の狂言ライブを即座に宗家襲名披露公演とし、21歳の元彌が「和泉流二十世宗家」を名乗った。6月30日に父が他界すると、この公演が宗家襲名披露として後見人を立てるなどの手続きがなく能楽宗家会の了承も得ていないことが判明し、問題となった。元秀の死後に結成された和泉流職分会(会長:野村萬〔野村万蔵家〕、代表幹事:井上祐一、幹事:野村万之丞〔野村万蔵家〕)は、会員53人中48人が元彌の宗家継承に反対。「芸が未熟なので、先輩に学んで実力をつけてからではどうか」とも提案したが、和泉家側はこれを拒否、「和泉流二十世宗家 和泉元彌」を商標登録出願する挙に出た。7月25日、回答がないため期限を31日まで延長。7月29日、元彌は、能楽協会に自身の除名申請をした職分会代表幹事の井上祐一を、7月末日をもって破門とする旨の内容証明を送付した。文面は「和泉流宗家として現在の流内の混乱を心配している…」から始まっていた。これについて井上は、元彌は能楽協会や能楽宗家会から宗家と認められていないので破門する資格がない、とこれを否定した。7月31日の期限までに、元彌の代理人の弁護士から元彌側の主張を一方的に述べた内容の文書が届いただけで質問への回答は無かった。10月30日、元彌は「意見を述べる場などを設けていない不当な退会処分」として、能楽協会を相手に損害賠償と退会処分取り消しを求めて東京地裁に提訴した 1審・2審で元彌側は「能楽協会幹部の『(元彌は)和泉流二十世宗家ではない』との発言は不当」などと主張したが、1審・2審とも「協会内では原告は宗家と認められていない」と指摘、退会命令も適法と判断した。2006年6月9日、最高裁は原告の請求を棄却、これにより元彌の能楽協会退会は確定した。2009年現在、和泉流は1995年の元秀死去後、能楽に関する決め事については、職分会における会員合議制を取り、宗家を置いていない。また能楽協会・能楽宗家会・和泉流職分会とも、元彌を和泉流宗家とは認めていない。したがって、和泉元彌は「和泉流二十世宗家 和泉元彌」と「株式会社和泉宗家」として「宗家」を名乗ってはいるものの、能楽界で彼を宗家と認める団体は存在しない。ただし、これには狂言活動自体への拘束力はなく、二十世宗家を名乗ること自体は可能である。2008年6月15日、「ルーフ」及び「和泉流宗家」主催により、四川大地震チャリティーのための狂言が行われ、舞台には和泉流宗家一門が並んだ。その様子は当日、ブログにおいても経過も含め時系列で報告されブログ読者の注目を大きく集め、2008年6月17日には中国大使館に募金を届けた様子を紹介し、後日公式な募金金額の報告について公表する旨を2008年6月20日 00:22:13にブログ記事の投稿として、公言。和泉流宗家一派の本名は山脇姓であるが、芸名として和泉姓を使用している。幼名は三宅保之。九世三宅藤九郎の長男で、次男は三宅右近。6歳の時、和泉流17世宗家山脇元清の娘・ゆき子の養子となり、山脇保之へ改名。芸名を和泉保之と名乗り、のち和泉元秀と改名(重要無形文化財総合認定)。社団法人日本能楽会会員。