Images of 与多王
コロナウィルスに伴う緊急事態宣言が解除され、多少日常生活も落ち着きを取り戻してまいりましたので、コロナ禍の錦秋を愛でに近江まで足を延ばしてみました。
天台寺門宗の総本山 三井寺は 、正式名称を長等山園城寺(ながらさん おんじょうじ)と言い、琵琶湖を見下ろす長等山中腹に伽藍を広げる1300年の歴史を刻む古刹です。35万坪もの広大な寺域に、観音堂を中心とする「南院」、金堂や唐院を中心とする「中院」、新羅善神堂を中心とする「北院」の3エリアが連なります。本尊は弥勒菩薩像を祀り、また、全身が黄色の不動明王立像の仏画「黄不動」は高野山明王院「赤不動」や京都青蓮院「青不動」と共に三不動に数えられます。
「三井寺」の名の由来は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統天皇の3帝の産湯に使われたことから元々「御井(みい)の寺」と呼ばれていたのが、平安時代にその霊泉を智証大師 円珍が密教の厳義・三部潅頂の法儀に閼伽に用いたことに因みます。
寺院の草創は、大友皇子の子 与多王(よたのおおきみ)が壬申の乱で没した父の菩提を弔うと共にその念持仏 弥勒菩薩像を祀ったことに発します。その後の686(朱鳥元)年、戦で敵対した天武天皇が寺院建立を許可して寺号「園城寺」を授けました。859年には唐から帰朝した円珍が密教道場として唐院を開き、伽藍を再興し天台別院の初代長吏に就任し、東大寺や興福寺、延暦寺と共に「本朝四箇大寺」のひとつに数えられ、皇室や貴族、武家などの信仰を集め興隆しました。しかし、10世紀には延暦寺との抗争が激化し、度々天台山門宗徒による焼き討ちに遭いました。近世には関白 豊臣秀吉の逆鱗に触れて「文禄の闕所」なる厳しい沙汰を受けて廃寺同然となりましたが、幾多の法難を乗り越えてその都度再興を果たしてきました。それ故、「不死鳥の寺」とも称され、国宝64点、重要文化財720点を有します。
ご詠歌「いでいるや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖」











































