Images of 二階堂貞衡
吉野神宮(よしのじんぐう)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう1288−1339年)を祭神とする神社。南朝の後村上天皇(ごむらかみてんのう1328−1368年)は、父・後醍醐天皇崩御後後醍醐天皇像を吉水院に安置した。吉水院は神仏分離により1873年に神社となり吉水神社に改称された。1889年に後醍醐天皇を祀る吉野宮の創建が、明治天皇(めいじてんのう1852−1912年)の意向で決定し1892年に社殿が竣工、吉水神社から後醍醐天皇像が遷座されている。
本殿・拝殿・神門は後後醍醐天皇が帰還を熱望したが果たせなかった京都の方角・北向きに建てられた総檜造で近代神社建築の代表とされている。
吉野神宮の近くには村上 義光(むらかみ よしてる、生年不詳 – 1333年)の墓がある。村上 義光は後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう1308−1335年)の忠臣として知られ、1333年に幕府方の二階堂貞藤(にかいどう さだふじ1267−1335年)が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った際、護良親王の鎧を着て身代わりとなって自刃した(太平記)とされている。
吉野神宮周辺の桜は下千本として知られているが4月8日は散り始めだった。
(写真は吉野神宮)
「所沢発日帰りバスの旅」その2です。
昼食を終えて 午後の日程は
◎甲斐武田氏の菩提寺として知られる 乾徳山(けんとくさん)恵林寺
恵林寺明王殿には武田不動尊と称される不動明王坐像及び二童子像が安置されています。恵林寺は鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされます。
◎万葉集の歌碑が設置され「令和」話題の公園「万力公園」
新元号『令和(れいわ)』の発表後、典拠となった万葉集が脚光を浴び、万葉集の歌碑が設置されている万力公園「万葉の森」が話題となっています。
万力公園「万葉の森」は、松、梅、すみれ、彼岸花など万葉集にうたわれた植物が公園内に多く自生していたことから、その植物の歌碑を園内にちりばめ、平成5年万力公園「万葉の森」として開園しました。
『令和』は万葉集巻五 梅花の歌三十二首の導入部分「令月にして気淑く風和ぎ」から引用されましたが、公園内には三十二首の一つ「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(大伴旅人)」の歌碑もあります。
◎山梨県内で最大のワイナリー「マンズワイン勝沼ワイナリー」
見学コースの中でワインの蓋をしているコルクは木の皮から作られていることを学びます。ワインを甘口・辛口・それぞれのコーナーで試飲したのち購入も可能です。ぶどうジュースまで販売しています。
◎最後にお馴染み宝石館 ベテランスタッフと雑談してきました。
幸いなことに 心配された天気は何とか持ちこたえ、全日程を終えて帰路に就くやいなや土砂降りとなりました。
降りしきる雨の中、山梨を午後3時40分出発 を談合坂から小仏トンネルまで断続的に渋滞30キロ。それでも予定より1時間半遅れの午後7時半ちょうど所沢駅東口到着。 都合12時間 走行距離:240kmのバスの旅となりました。
注)掲載記事中「恵林寺」については同院公式サイトおよびフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、「万力公園」については同園公式サイト、各歌の解説は万葉集関連サイトより、「マンズワイン勝沼ワイナリー」については同社公式サイトよりそれぞれ抜粋引用したものです。
鎌倉市二階堂字紅葉谷(もみじがやつ)にある瑞泉寺には茶室がある。南芳庵は平成23年(2011年)7月に完成した(https://4travel.jp/travelogue/10761192)が、建て替え前は「南芳軒」(https://tocotocoyu.exblog.jp/2505659/)であった。境内図の中には庫裏の横に「保寿軒」(平成8年(1996年)に建てられた)、南芳庵の裏手に「吉祥斉」とあるものもある。これらはいずれも茶室と紹介されている(https://omairi.info/2018/10/03/zuisenji-tpl-keidaisanpo/#outline__5_5)ので、ここ瑞泉寺には都合3つの茶室があることになる。
嘉暦元年(1326年)夢窓疎石は南禅寺を退院し、二階堂道蘊(貞藤)が建立した「南芳庵」に入るが、翌年には浄智寺に移ってしまう。そこで、貞藤は嘉暦2年(1327年)に南芳庵の近くに新に瑞泉院を建立し、疎石を紅葉谷の地に戻すことができた。この年が後の瑞泉寺の創建年になっている。正平22年/貞治6年(1367年)に初代鎌倉公方・足利基氏の塔所となって瑞泉寺に改まるのであるが、寺は隆盛を極め、南芳庵の他、保寿院、果証院、長春院、勝光院などの塔頭が設けられた。瑞泉寺の茶室・南芳庵や「南芳軒」、「保寿軒」はそれらの塔頭名に由来していよう。また、吉祥は「めでたい」とか「縁起が良い」という意味であり、「斎」は日本語の当て字であり、斎戒(神聖な仕事をする前に身を清めること)という意味があるようである。その「斎」が「斉」になったのであろうか?上述したように、建て替え前は「南芳軒」であった。庵(いおり)ではなく茶室だったので軒を用いていたのだろう。「保寿軒」もしかり。
(表紙写真は南芳庵)