Images of 今川基氏
葛山城(かずらやまじょう、静岡県裾野市葛山)の築城時期は判然としませんが、南北朝時代に駿東郡一帯に勢力を有していた藤原惟康の孫親家が大森氏と称し今川氏に仕えながら富士川以東を所領として栄え後に小田原に移住、他方子惟兼が当地に残り葛山氏と名乗って居館を構え、後に有事の際の詰城として築いた並郭式の山城です。
暦応元年(1338)足利尊氏(あしかが・たかうじ)が京都室町に幕府を創設、併せて出身地の上野国足利荘を含む関東8ケ国に甲斐・伊豆を加えた10ケ国(後に奥州2ケ国が追加編入)について尊氏は幕府の出先機関を鎌倉に置いて長男義詮(よしあきら)に代わる四男基氏(もとうじ)に政権運営を委ねることになります。
葛山氏が領する駿東郡は駿河国の一部で鎌倉府の行政地域の外にあって当然幕府の管轄に属し、具体的には駿河守護の今川氏領国でありこの事から葛山氏は大永元年(1521)の今川氏家臣福島正成(くしま・まさなり)率いる甲斐武田氏侵攻に出兵するなど今川氏の被官の国衆とするも自領の地勢的な不安定さを考慮して付かず離れずの半独立性を指向します。
長禄2年(1458)足利義教(あしかが・よしのり)の子である政和(まさとも)が堀越公方として伊豆国に下向、駿河国衆の葛山氏は同公方の影響下にありましたが新将軍足利義澄(あしかが・よしずみ)の命によって伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)の指揮下に入って足利茶々丸の討伐に加わります。
その後は北条氏による伊豆国及び相模国の領有化に葛山氏は関与を進め、これを機に早瑞のもとへ葛山氏の娘が嫁ぎ、その後早瑞の子である氏広(うじひろ)が葛山氏の養子となって家督を引き継ぎます。
上述のように今川氏の重臣でもあり、同時に小田原北条氏の一族でもある立場を続けるなか、氏広は武田信玄の甲斐国とも領土を接していることから武田氏の進出を念頭において甥の御宿友綱(みしゅく・ともつな)を人質として送り込み極めて厳しい局面を乗り切ろうとします。
しかし永禄3年(1560)今川義元が尾張国桶狭間に討取られ、これを契機に今川氏の求心力は衰え没落の一途を辿り、葛山氏も衰退をしていくなか当主氏元(うじもと)は武田方の穴山氏と共に北条氏家臣が守備する大宮城を攻撃して武田氏との同盟関係は良好に推移します。
その後氏元は北条氏に内通しているとの嫌疑をかけられ誅殺され、信玄は人質として置かれていた氏元の娘に自分の六男信貞(のぶさだ、??1582)を養子として葛山姓を名乗らせ葛山氏領を継承させることで事実上の支配政策を採ります。
天正10年(1982)織田信長の武田氏攻略によって陣代ながら事実上の武田氏棟梁である武田勝頼は天目山で自害、始祖である新羅三郎義光の血を継ぐ甲斐源武田氏は滅亡、信貞も甲府善光寺にて殺害され葛山氏も滅亡します。
葛山城本丸に至る中腹にある葛山氏廟の横に立っている説明板には次の如く記載されています。
「葛山城
指定種目 裾野市指定史跡
指定年月日 昭和四十八年二月二十四日
葛山城は鎌倉・室町・戦国期を通じて、駿東一帯に勢力を持った葛山氏の本拠地である。
この地には、葛山氏が平時居住した館跡と、戦闘に備えて築城した城跡があり、中世城郭の形態を明確に知ることができる数少ない貴重な史跡である。
城の構造は、主郭(本丸)、二の曲輪、東曲輪、西曲輪、大手曲輪とその他の小郭群、堀切から成り、山頂部を階段状に平らに削って主郭を中央に設け、左右に曲輪を配している並郭式の山城である。
葛山氏は藤原鎌足の流れをくむ、藤原道隆の子伊周を祖とし、惟康の次男親康が大森に住んでいたので、大森氏を名乗り、惟親の三男惟兼が葛山に住んでいたので葛山氏と名乗ったとされる。
戦国期葛山は氏堯・氏広・氏元と三代続き、天文初年頃(1532頃)氏広・氏元は駿府で公家と交流し歌を詠んだことが、当寺今川氏と関係深かった冷泉為和の歌集「為和卿集」にその様子をうかがい知ることができる。
また、墓所の玉垣と門扉は江戸時代期のもので、門扉には丸に武田菱が刻まれている。葛山氏の墓に武田の紋があるのは不自然であるが、葛山氏の最後の領主は武田信玄の六男信貞とされ、武田氏滅亡の天正十年の年(1582)小山田信茂とともに甲斐善光寺で最期を迎えることになり、法号陽春院瑞香浄英という。その供養の意味をこめて造ったものと思われる。
葛山氏系図 ー 略 ー
裾野市史より」
また葛山氏居館跡入口に掲載の「葛山館跡」と題する説明は次の通りです。
「葛山館跡
市指定史跡・昭和48年2月24日指定
葛山館跡は、12世紀前半(平安時代)から16世紀後半(室町時代)にかけ、東駿一帯に勢力を振っていた葛山氏が平時居住していた館を構えた地である。
館跡は、東西約97メ?トル、南北約104メ?トルで約1万平方メ?トルの規模があり、東西と北に土塁が残存している。土塁規模は馬踏幅約1.2メ?トル、高さ約3.5メ?トル、底敷幅約10メ?トルほどある。
出入口は現在三ケ所あるが、北東隅と西側北の二ケ所は後世の間口といわれ、西側南の開口部が門址とされる。
この城館の西隣に接続して半田屋敷、荻田屋敷と、その北西に岡村屋敷があり、葛山館と重臣屋敷は、総体的に複濠複郭式の館を構成している。
このうち半田屋敷北側には、今も土塁址が残存している。また、北側と東側には土塁に沿って濠があったが、埋め立てられ、堀田という地名になっている。
館跡東南済が「鍛冶屋敷」、館の南側を流れる大久保川を隔てた南西側の金毘羅山の裾野を「金山」といい、「馬場」、「陣加堂」「上円」、「中村」など城下集落に関係の深い小字名が残っている。
平成元年に館跡の発掘調査が行われ、中世のカワラケや常滑焼の壅片などが発見、確認されている。 裾野市教育委員会」
名鉄西尾線西尾駅から東進徒歩約30分西尾中学校運動場南側に接する小道に今川氏発祥の地の石碑があります。
御存じの通り今川氏は守護大名から戦国大名に発展した著名な大名ですが、その発祥については記述はあまり語られていません。実は三河国幡豆郡今川荘(現愛知県西尾市今川町)が発祥の地で現在は館跡など往時を思わせるものはなくただ石碑があるだけです。
そもそも今川氏は鎌倉幕府御家人であった足利氏第2代当主足利義兼(あしかが・よしかね、1154~1199)の孫である吉良長氏(きら・ながうじ)の二男である国氏(くにうじ、1243~1282)が上記幡豆郡今川荘を分地されその土地の名前を取って今川と名乗ったのが名門今川氏の興りで国氏が今川氏の祖となります。
その今川氏も国氏時代は今川荘において僅か三ケ村を領有する小規模在地領主に過ぎませんでしたが、国氏の子基氏(もとうじ)を経てその子範国(のりくに、1295?~1384)の代に至り南北朝の騒乱期に足利尊氏に属し、各地で戦功を挙げ瞬く間に遠江並びに駿河の守護となり戦国時代の今川氏の態勢を作り上げます。
「今川
承久の乱後、足利義氏が三河国の守護に任ぜられた。
義氏の嫡子長氏は、義氏が足利へ帰った跡地を継ぎ、吉良荘にちなんで吉良氏を名乗った。吉良家は二代満氏へと伝えられた。
今川荘は長氏が少年時代に義氏から装束料として送られた地で、長氏は次子国氏に伝えた。国氏は荘名の今川を名字とし、今川氏の祖となった。
今川の地名は荘名の名残りと伝えられる。
昭和59年1月
西尾市教育委員会」