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唐門(国宝)
門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門(勅使門)が唐門です。創建時は、門全体が黒の漆塗で菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されていました。平成22年7月、約1年半をかけ、往時の壮麗な姿に修復されました。その大胆な意匠は、桃山時代の気風を今に伝えています。
https://www.daigoji.or.jp/garan/garan_frame/sanboin_frame_j.html#sanbo05 より引用
西大門(仁王門)
豊臣秀頼が金堂の再建の後、慶長10年(1605)に再建したもの。そこに安置されている仁王像(重文)は、もとは南大門に祀られていた尊像で、平安後期の長承3年(1134)に仏師勢増・仁増によって造立された尊像です。体内の墨書、納札等に南大門から移された経緯などがかかれています。
https://www.daigoji.or.jp/grounds/garan.html より引用
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院。真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山と称する。本尊は薬師如来、開基は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。
平安時代初期の創建。貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、大伽藍「下醍醐」が発展することになる。 その後、室町時代の応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が再建されたりなどし、今日の姿となった。
伽藍
本尊の薬師如来像を安置する金堂、三宝院などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がる。護摩道場前に建つ五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像として現存最古のものである。
総門 左側に三宝院、右側に霊宝館。
西大門(仁王門・受付) -慶長10年(1605年)に再建。
清瀧宮本殿(重要文化財) - 永正14年(1517年)に再建。
清瀧宮拝殿 - 慶長4年(1599年)建立。
金堂(国宝)
入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期の建立。豊臣秀吉の発願により紀州から移築したもので、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶している。立ちの高い入母屋屋根は近世風で、移築時の改修である。内部には本尊・薬師如来坐像(重要文化財)と日光菩薩・月光菩薩と四天王像を安置する。
五重塔(国宝)
平安時代の天暦5年(951年)建立。総高38メートル。うち相輪部が12.8メートルで、全体の3割以上を占める。屋根の逓減率が大きく、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長いプロポーションにはならない。創建以来修理を重ねたが1960年(昭和35年)に修理が完成した。京都に残る数少ない平安時代建築として貴重であるとともに、初重内部の両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安絵画の遺品として重要であり、塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されている。
祖師堂 - 向かって右に弘法大師、左に理源大師を祀る。慶長10年(1605年)建立。
観音堂(旧・大講堂) - 1930年(昭和5年)建立。本尊は丈六の阿弥陀如来坐像であるが、現在は消失した上醍醐の准胝堂の西国三十三所札所が仮に移されており、「観音堂」と改称されていて、堂内に納経所がある。
弁天堂 - 1930年(昭和5年)に林泉の北東岸に建立された建物。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
醍醐寺 については・・
https://www.daigoji.or.jp/
http://www.pref.kyoto.jp/isan/daigoji.html