Images of 土肥修平
三原城(みはらじょう、広島県三原市館町)は鎌倉時代に公文所別当(長官)として源頼朝の側近として信任を得て活躍、頼朝没後北条氏の執権政治移行後も宿老として同氏を支えた大江広元(おおえ・ひろもと)を遠祖とする安芸・吉田郡山に拠点を置いた毛利元就(もうり・もとなり)の三男である隆景(たかかげ、1533~1597)が天文13年(1544)養子先の竹原小早川家を、次いで天文19年(1550)に沼田小早川家をそれぞれ相続し安芸国東南部を支配する一大勢力の当主となった後、永禄10年(1567)、それまでの山城の新高山城から拠点を瀬戸内海に面した沼田川河口に浮かぶ大島と小島とを繋いで築いた軍港を兼ねた海城に移します。
上記の如く隆景は本家沼田と分家竹原とに分かれていた両小早川家を統合し、旧本家が居住していた高山城(たかやまじょう、三原市高坂町)に入城しここを拠点としますが、翌年沼田川を挟んだ対岸の砦を拡大整備させて新高山城(にいたかやまじょう、三原市本郷町)と改称して新たな小早川家本拠として活躍します。
そもそも小早川氏の先祖は遡る事伊豆に配流の源頼朝が治承4年(1180)平氏に対し反旗を翻した以前から頼朝に仕えた土肥実平(どい・さねひら)で頼朝挙兵の際には出身の中村一族を率いて参戦、平家追討及び奥州藤原氏討伐などで戦功をあげた譜代の中の譜代として知られ、実平の子遠平(とおひら)が知行地の相模国早河荘(現在の小田原市)の地名から「小早川」と名乗り、やがて安芸国沼田荘の地頭に補されたことが契機となります。
三代目の茂平(しげひら)時代に発展して竹原まで支配を拡げ、三男雅平(まさひら)が同地に拠点を築き「沼田小早川家」を創設、その勢力は芸予諸島に及び小早川水軍の基礎を築きます。
また茂平の四男政景(まさかげ)は竹原荘を分与され「竹原小早川家」と称され室町時代中期には本家と並ぶほどの著しい伸長を有するまでに至り、その後は本家と分家に分かれたまま推移、応仁の乱では本家は細川氏東軍側に分家は山名氏西軍側に分かれこれを機に両小早川氏は対立抗争を続ける敵対関係となります。
戦国時代に入ると出雲で勢力を拡大し戦国大名となった尼子氏が南下、芸備地方に勢力を有する大内氏領内に侵入する状況が多発、ついに尼子氏と大内氏との抗争が激化、両小早川氏も尼子・大内氏の争いに巻き込まれるなか、竹原小早川家では天文12年(1543)当主興景(おきかげ)が安芸国佐東の陣にて病没、興景には継嗣なく宿老らの評議を経て毛利元就三男隆景を養子として迎い入れ、更に沼田小早川家でも当主繁平(しげひら)が盲目であったことから隆景は沼田小早川家の家督を相続したことで両家は統一されるに至ります。
「史跡 小早川氏城跡
三原城跡
所在 三原市館町・本町・城町
昭和三十二年十二月十一日指定
小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて、瀬戸内海の水軍を掌握していた。隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して沼田川河口の三原の小島をつないで城郭を築きここに移った。
三原城は海に向って舟入りを開き、城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので「浮城」と呼ばれている。
小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていたが、国鉄山陽本線及び新幹線が本丸を貫き、今は天守台とそれを巡る濠及びと舟入櫓跡・中門跡などが残るのみである。
三原市教育委員会」