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東京メトロ日比谷線広尾駅から徒歩で10分、瑞泉山・霊泉院(れいせんいん、東京都渋谷区広尾)は本尊が観世音立像とする臨済宗大徳寺派の寺院で、徳峰和尚なる僧が開山となり寛文9年(1669)当地に創建したと伝えられています。
境内に建てられた「板碑」説明板には下記の通り紹介されています。
『 板 碑
板碑は鎌倉時代から江戸時代のはじめ頃の間に作られました。関東ではおもに、秩父産の緑泥片岩を原材料として創られた典型的な板状塔婆です。板碑の一般的な特徴は、頭部を山形にし、二段の切り込み(二条線)の下に本尊としての仏像または梵字の種字が彫られ、造立年代・願文・かつ文などが刻まれている点です。
この板碑は、上部の横線の下に天蓋と阿弥陀の種字、その下に蓮台を刻み、明徳5年(1394)5月29日という造立年月日と、供養の文字が彫りこまれています。
文書資料の少ない渋谷区の中世史研究にとって、この板碑は欠くことのできない大切な資料です。
渋谷区教育委員会 』
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また、隣接する臨済宗大徳寺派・香林院は大給(おぎゅう)家・真次流の初代松平真次(まつだいら・さねつぐ、1577~1646)が開基となって寛文5年(1665)に麻布小山にて創建され、大給(真次流)松平氏の菩提寺となっています。しかし寛文8年(1668)江戸の大火によって伽藍焼失したためh現在地に移転した経緯があります。
当時院には大給家・真次流の11代(最後)の当主である松平恒(まつだいら・わたる、旧名・乗かた、1839~1910)の墓所となっています。
境内に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。
『 香林院と大給恒の墓
香林院は、大給松平氏の菩提寺として、寛文5年(1665)に建立されました。開基は大給恒の先祖真次で、法名から寺号を香林院としました。
大給松平氏は、松平一門として徳川幕府に仕えました。その本拠は三河ですが、竜岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は恒が造った江戸時代の最後の城郭建築で、函館の五稜郭とともに我が国には珍しい洋式の城です。
恒は明治維新後に姓を大給と改め、新政府の要職に就きました。明治11年(1878)には、賞勲局副総裁となり、同28年には総裁となりました。日本の勲章制度の礎を築くとともに、彼が考案した日本古来の伝統に基づく勲章のデザインは現在も使われています。
また、明治10年(1877)5月に、佐野常民らと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、常民とともに初代副総長となり、日本の医療・福祉制度の整備に努めました。
墓は、この説明板の左手奥、祥雲寺山内の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官正二位勲一等伯爵大給恒墓明治43年1月6日甍」と刻まれています。
渋谷区教育委員会 』