Images of 大垣空襲
2021年3月30日(火)3時半過ぎ、大垣公園の一角にある大垣城へ。麋城(びじょう)や巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる。諸説あるが、元々は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、1535年に創建されたと伝えられる。当時は牛屋城と呼ばれ、牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであったと云う。
その後、織田信長が5年間城主を務めたり、清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人の池田恒興も城主となった。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となったが、現在の城の元となったのは1649年の戸田氏鉄の築城によるもの。戸田氏はその後明治に至るまで城主を務めた。
明治維新後の1873年(明治6年)廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝に指定された。しかし1945年7月の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失した。
現在の鉄筋コンクリート構造4層4階の天守は1959年に郡上八幡城を参考に外観復元されたもの。2011年に完了した屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事により焼失前の大垣城の外観に近くなるように改修された。2017年に続日本100名城に選定されている。
城の南側に建つ金森吉次郎の像の横、鉄門跡から本丸跡に入る。本丸は元々は堀に囲まれており、鉄門は廊下橋で堀を渡ったところにあった。本丸の中にはさらに一段高い天守台があり、天守台はさらに内部の壁と門で囲まれていた。階段を登ったところが、その内壁にあった七間多門の跡(下の写真1)。
その北側に建つ復元天守閣へ入場料200円を払って入城(下の写真2)。内部は4層4階となっており、1階は関ケ原合戦と大垣城、2階は武士と庶民の文化や生活に関する展示があり、3階が休息室、4階が展望室となっている。江戸時代の城の鳥観図で、当時の様子がよく分かる。
展望室からは北にJR大垣駅から遥か曽根城跡、東遥かに岐阜城、南には養老山地、西はすぐ下の城西広場の先に関ケ原から伊吹山が望める。
天守閣から東側に降りた先にあるのが東門だが、もともとのあったものではなく天守の復興にともなう整備の際に、旧柳口門を移築したもの。大垣城には柳口門の他、大手門、南口門、竹橋口門、清水口門、辰之口門、小橋口門と7つの門があり、七口之門と呼ばれていた。現在はいずれの門も当時の場所にはない。この東門の辺りには本丸の鉄砲多門があった。
東門の北側の角に建つのが艮(うしとら)隅櫓。本丸を取り囲んだ腰曲輪の櫓で、本丸と共に旧国宝になったが戦災で焼失し、1959年に鉄筋コンクリート構造で再建された。反対側、東門の南側を少し入ったところに建つのが武徳殿(下の写真3)。元々大日本武徳会の武道館だったが、現在は資料保管庫となっている。
大日本武徳会は1895年(明治28年)に設立され、戦前の日本において、武道の振興、教育、顕彰を目的として活動していた財団法人で、京都の岡崎にある本部道場が、かつて大内裏にあった武徳殿と同じに名を付けられ、全国各地の支部道場も本部に倣って武徳殿と呼ばれていた。
反対側の北西角、水之手門跡の横にあるのが乾隅櫓で、野面積の石垣は石灰岩で作られている。1966年に鉄筋コンクリート構造で再建され、2010年に外観復元されたもの。その前にある松はおあむの松と呼ばれている。
関ヶ原の戦いの折り、石田三成の家臣の山田去暦は娘のおあむらとこの大垣城に籠城していたが、以前家康の手習いの師匠だったことから逃すとの矢文が東軍から届き、家族4人で天守の西側にあった腰曲輪の松の木に縄をかけ、それを伝って内堀に降り、たらいに乗って逃げたとのこと。現在残る松は植え継がれた二代目の松。
その他、本丸内には戊辰の役顕彰碑や菱田重禧詩碑、大垣博記念碑も建つ。戊辰の役顕彰碑は戊辰戦争に従軍した大垣藩兵を顕彰するもので、大垣藩は戊辰戦争に1400余名の藩兵を派遣し、55名の戦死者を出している(下の写真4)。
菱田重禧は大垣藩士で、鳥羽伏見の戦いの際に、長州藩兵に捕まり、殺されそうになるが、時世として詠んだ七言絶句の詩に感銘を受けた長州藩士石部誠中によって許された。刻まれているのはその時の詩で通称「屠腹の詩」で「苦学して君父の恩に報いようと思い、一灯の許に学んだ三十余年は空しく、落ち着いて死んでいこうとする今夜。只、残念なのは真心が未だ天子に徹っていない事」と云う意味(下の写真5)。
大垣博記念碑は2000年の「決戦関ケ原大垣博」の開催を記念したもの(下の写真6)。
天守閣石垣西北角には明治二十九年の大洪水点の碑が建つ。1896年に岐阜県の西濃地方(岐阜県の木曽川西岸地域)は7月と9月の二度にわたり輪中堤防破堤の水害に襲われ、ほぼ全域が浸水し、死者207人、流失家屋4657戸、破壊家屋9441戸、堤防の決壊3286箇所という悲惨な被害を起こした。9月の豪雨では7月の洪水を1.1m上回り、深いところで地面から4.2mの高さまで浸水し、岐阜・大垣間を舟で往来できたそうだ。その高さの線がこの碑の後ろの石垣に刻まれている(下の写真7)。
西門を抜けて城西広場へ抜ける。この門は1985年に行われた修景整備の際に造られた模擬門で、元々あった門ではない。
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もう少し大垣公園を回るが、続く。