Images of 太田清利
JR八高線越生(おごせ)駅よりバス20分「小杉」を下車すると北側には「越生梅林」が視野に入ります。梅林を左右に眺めながら北進、越辺川(おっぺがわ)に架かる道灌橋を渡りますと何の飾り気もない小振りな社寺が視野に入ります。これが太田同真(おおたどうしん、1411~1492)の隠居地であった自得軒(じとくけん)跡で現在は越生山健康寺(けんごうじ、埼玉県入間郡越生町)となってます。
太田同真はの同真は法名で正しくは資清(すけきよ)で、文安4年(1447)頃に出家して法名を同真と称しています。便宜上同真と呼ぶことにします。
そもそも太田氏は戦国時代における扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰の家柄で、同真も上杉持朝(うえすぎもちとも、1416~1467)に仕え、家宰と共に相模守護代を務めます。
若くして家宰となりますが文武に優れた武将のため関東の武将達からも一目置かれていたそうで、扇谷上杉氏の影響力は相模国から武蔵国南部にまで及ぶことになります。
永享11年(1439)鎌倉公方・足利持氏(あしかが・もちうじ、1398~1439)と関東管領職を務める山内上杉憲実(うえすぎ・のりざね、1410?~1466)が対立(永享の乱)、同真主家扇谷氏は山内上杉氏を支援、幕府軍と共に持氏を追討し持氏は耐え切れず自害して滅びます。(永享の乱)
文安4年(1447)鎌倉公方が再興、持氏の遺児成氏(しげうじ、1438~1497)が公方となりますが、実父を自害に追い込んだ両上杉氏に深い恨みを抱き、ことごとく対立が続く中両上杉氏の代替わりをすることになります。
その後幾多の戦いを経た後、幕府の攻撃を受け成氏は鎌倉を維持できず、下総古河に拠点を移しその後も両上杉氏との抗争が続きます。(享得の乱)
対峙する古河公方との戦いに備える必要から太田同真は主家の意を受けて家督を譲った嫡男道灌(どうかん(法名))、1432~1486)と共に河越城・江戸城・岩槻城を築城しています。
文明14年(1482)永年の抗争を繰り返していた古河公方方と両上杉氏との和議が成立、その後同真は隠居して自得軒に居を構えます。文明18年(1486)道灌は相国寺の詩僧万里集九を伴い同真の隠居所を訪問暫しの詩会を楽しみます。
上記会合から1ケ月後道灌は主家扇谷定正居館の糟谷館(現神奈川県伊勢原市)に招かれたが定正(さだまさ、1443~1494)の意向により暗殺されます。
息子の死を悲しんだ同真は道灌の菩提弔うためこの地に健康寺を建立したと言われています。
2022年6月5日追記
現地案内板には下記の通り説明がされています。
『 健康寺 越生町小杉
関東管領上杉家一族の扇谷上杉家の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに江戸城、岩付城、河越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒の跡地と推定され、「太田同真退隠地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
文明18年(1486)6月、道灌は友人万里集九とともに道真を訪れた。万里の詩文集「梅花無尽蔵」にその折に詠じた次の7絶が収められている。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(縦へ千声ありと云へども尚合ふに稀なり)
況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏に似たるを)
細雨山中聴未帰(細雨山中に聴いて未だ帰らず)
翌7月、道灌は相模国粕屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父子最後の対面の場となった。道真は道灌の菩提を弔うため越生山健康寺を開いたという。
門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。また、堰と導水路の跡が遺る水車才車の才は城塞城砦の塞(砦)に由来するとの説もある。
平成25年3月
越生町教育委員会 』