Images of 宮田佳典
1974年11月20日、日米野球の全日程を終了後に川上は監督の退任を表明。翌21日、巨人は後楽園球場にて記者会見し、川上が監督を退任し、長嶋が新監督に就任すると正式に発表した。長嶋はこの席で「クリーン・ベースボール」を標榜した 前監督の川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投・打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編 ミスをした選手に罰金を課す減点主義を廃し、いいプレーを年俸に反映させる加点主義に転換した そのためヘッドコーチに関根潤三、投手コーチに宮田征典、守備・走塁コーチ補佐に黒江透修、バッテリーコーチに淡河弘などをそれぞれ招聘した(黒江・淡河は現役引退後からの残留) 川上は作戦コーチの牧野茂、投手コーチの藤田元司の残留を要請し、森昌彦のコーチでの残留、堀内恒夫のトレードでの放出をアドバイスしたが、長嶋は川上時代のコーチ陣を一掃し、川上のアドバイスをすべて蹴っている 長嶋と森は犬猿の仲であった 黒江によると長嶋は「川上さんみたいな暑苦しい野球はしたくない」と言ったという。新背番号は「90」 新背番号を考えていた長嶋は当時小学生の息子の一茂に相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順が3番・背番号3・三塁手)から、3を3つ足して9」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司が付けていたため)。長嶋はV9時代を知らない若手選手を「シンデレラ・ボーイ」と呼び、伊東スタジアムの秋季キャンプに集結させた。これは後に地獄の伊東キャンプと呼ばれるようになった。江川・西本聖・角三男・藤城和明・鹿取義隆・赤嶺賢勇・山倉和博・笠間雄二・中畑清・淡口憲治・篠塚利夫・松本匡史・平田薫・山本功児・中司得三・河埜和正・中井康之・二宮至の18人が参加。キャンプ中に行われた練習試合で若手が全く活躍せず、ベテランだけが活躍したこともあり、当初は1976年オフの再来とも言われたが、このキャンプで若手の結束力が高まり、後に藤田元司時代の主力選手となる。長嶋批判が渦巻く中、1980年8月に当の川上が、青田昇・牧野茂・藤田元司・国松彰らを集めて週刊文春の座談会を開き、取材担当の瀧安治にオフレコにする条件として長嶋の後継監督について色々と話し合った。ところが数日後にその記事が掲載され、長嶋降ろしの波は避けられないものとなった。最終的に、球団のオーナーである正力亨ではなく、読売新聞社社長の務臺光雄が、1980年のシーズン終了前に長嶋の監督解任を決断した。球団がAクラスを確保すれば続投と公言していたものが一転した形で、「陰謀」と騒がれることになった 川上派の批判に晒され続けた長嶋は、川上(とその一派)による数年かけた裏工作の結果とみなし、長嶋の川上への悪感情は決定的なものになった 川上がOB会会長になった後はOB会への欠席を続け、1990年に、OB会から今年出席しないと除籍という勧告を受けて、しぶしぶ出席したのをきっかけに川上と「和解」した。後継監督には藤田元司が就いたが、藤田は前述の座談会に参加しており、また同座談会で川上が後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシングの対象とされ、1981年に日本一になった際にもそれは続いた。カルピス - 三島海雲(当時の社長)からのオファーによる。プロ野球選手では最初にCM出演したほか、藤田元司、広岡達朗、金田正一とも共演した。