Images of 御方
平安時代、交野ヶ原の郡津(こうず)に交野郡の郡司(ぐんじ)・宮道弥益(みやじいやます、びえき)の娘が失恋して天野川のよどみの「長渕池(ながぶちいけ)」に身を投げてしまったと言う悲恋の伝説が残っている。
源氏物語、帚木(ははきぎ)の巻で紫式部が光源氏よりも派手で有名なプレイボーイだとしている交野少将(かたののしょうしょう)が交野に鷹狩に来た時、交野郡司(現代の市長)の家に泊まり、その娘と一夜を契った。その夜以来娘は交野少将に心を奪われ、少将恋しさで思い悩みつつ再び逢う日を待ちわびる。だが少将は再び娘を訪ねてくることがなく、自分が片思いだということを知って絶望した姫は、「 かつきゆるうき身の沫(あわ)と成ぬとも誰かはとはん跡(あと)の白浪」と泡のようにはかなく消えてゆくわが身のむなしさと恨みを辞世の歌に残し、交野少将に渡すように頼んで身を投げたと言う。 その長渕池(ながぶちいけ)は、現在は埋め立てられ、昔の葦(あし)の茂った湿田や沼池の景観は見られない。
松塚会館前の「長渕池・ながぶちいけ」跡には交野郡の郡司(ぐんじ)の娘が交野少将に失恋して飛込んだといわれる伝説と歌を記載した記念碑が建てられているが、男女の悲恋はいつの世でも変わらない。交野少将(かたののしょうしょう)はどんな人物だったのだろうか。「交野少将物語」という「源氏物語」 に先行する恋愛小説があったが現在は原本が残っていないそうで残念だ。だが一般に在原業平(ありわら の なりひら825−880年)や「交野少将」とよばれていた藤原季縄(ふじわら すえなわ)がモデルと言われている。交野に良く訪れていた有名なプレイボーイ・在原業平が「交野少将」であったなら納得できる。「平安時代の市川海老蔵」といったところだろうか。紫式部も源氏物語の「光の君」の人物像に交野少将のイメージを重ねているのではないかと思われるが、市川海老蔵が「源氏物語」の光の君を演じているのは適役だろう。
私は「交野少将物語」は「源氏物語」創作への影響を与えたと想像している。明石(あかし)の巻で 播磨守・明石入道(あかしのにゅうどう)が都の貴人と結婚させようと田舎者の一人娘(のちの明石の御方)を、「いい縁がないのなら死んでしまえ」と厳しく諭しながら源氏に差し出した話は地方豪族の交野郡司・宮道弥益(みやじびえき)が出世を願って娘を交野少将に差し出した話と類似している。
また、「宇治十帖」・浮舟(うきふね)の巻で薫の君・匂宮との三角関係に苦しむ浮舟が宇治川に身投げしようとした段は「長渕池(ながぶちいけ)」への身投げの話がヒントになっているのではないか、などと勝手に想像してしまう。紫式部も「交野少将物語」を心を痛めながら読んだのではないだろうか。
娘に恨まれつつ死なれた交野少将がどんな気持ちだったのかわからないが、やはり責任を感じたのではないだろうか。京の都から遊びに来るイケメンの貴公子に恋をして死んでしまった交野の純情な田舎娘は哀れだ。
(写真は「長渕池・ながぶちいけ」跡にある記念碑)
諏訪大社(すわ たいしゃ)上社前宮(かみしゃ まえみや)は、長野県茅野市に所在する信濃國一之宮神社である。
該社、御祭祀は、
建御名方神(たけみなかたのかみ)
八坂刀売神(やさかとめのかみ)
の御2柱である。
該社は、諏訪湖を挟み上社2社、及び、下社2社が存在し、計4社が鎮座する全国諏訪社1万有余社の総代社である。
御鎮座、及び、起源に就いては不詳とされるが、我が国に於ける最古たる神社たると例えられ、延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に於いて、南方刀美神社(みなみかた とみの じんじゃ)なる記述が存在する。
皇室との関係は、持統女帝(じとう てんのう)(大化元年(645年)〜大宝2年(703年)1月13日)より勅使賜拝を初め、歴代天皇の崇敬篤く拝戴され、更に、神功皇后(じんぐう こうごう)(成務40年(170年)〜神功69年(269年)6月3日)に依る三韓出兵、及び、坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)(延長5年(927年)〜天平宝字2年(758年)〜弘仁2年(811年)6月17日)に依る東夷平定に神助を得たとされ、此れが基に、軍神武勇の守護神と崇められるに至った。
武田家庇護下に在った事から甲州征伐(こうしゅう せいばつ)天正9年(1581年)3月11日に織田信長嫡男信忠(おだ のぶただ)(弘治3年(1557年)〜天正10年(1582年)6月21日)に討入られ、退避した神興群を除き境内造営物悉く焼討され烏有に帰した。
造営の特徴として、上野國一之宮 貫前神社に於ける貫前造と並び、該社に於ける造営を諏訪造と称するが、貫前神社のは造営を称するのに対し該社は社配置を以って称する。
該社は4ヶ所の神社の総称であり、諏訪湖を挟み約10キロ四方に存在し、上社2社に対し、上社は前宮、及び、本宮、下社は春宮、及び、秋宮から成立する。
然るに、該社には、本来であれば神社に於ける本殿たる建物が存在せず、御神木を神と崇めるのは古代宗教を継続した存在と言える。
明治維新に拠り、新政府は王政復古の制から祭政一致に基き、奈良期以来、混沌としていた神仏混淆を禁じ神道を以って国教とする方針を強行した為に、全国に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ該社も例外では無かった。
該社境内には神宮寺をはじめ境内寺院が存在したが、元より存在が認められる筈も無く、該社から除仏が強行させられ仏教堂塔は一部移築した物以外は全部破却させられた。
明治政府の新政策に依り、旧士族階級は次々と特権を喪失するに至ったが、該最大のものが、明治4年(1871年)8月29日に実施された廃藩置県で、此れに拠り旧士族階級は新政府に対し失望から怨嗟へと移行した。
更に、政府は同年7月1日に社格制度を施行し、全国所在の神社は、國幣社、官幣社、縣社、郷社、村社、無格社に分類されたが、同時に、政府に反感を抱く旧士族階級が各地所在の大社を拠点に反政府運動展開を懸念し、皇室に代わる勢力出現を恐れ神職世襲が禁止された。
現実には神職など誰でもなれる職種では無く、政府も直ぐに該矛盾に気付き神職世襲禁止は有名無実と化し解除されたが、該社は該令を忠実遵守した為に、上社では神職270名が離職を余儀無くされ、神代以来、該社宮司専門家だった守矢家も宮司職を辞し上京し別途職に従事した。
明治4年(1871年)7月1日附 國幣中社
明治29年(1896年)7月8日附 官幣中社
大正5年(1916年)12月12日附 官幣大社
表紙写真は 上社前宮参道石段
諏訪大社上社前宮
茅野市宮川2030
?: 0266−52−1919
9:00〜16:30
中央本線茅野駅東口 アルピコ交通バス前宮前停留所降車 徒歩1分
http://suwataisha.or.jp/