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第十五章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:船浮臨時要塞遺構編~
八重山諸島に属する西表島。長い歴史の中に於いて水没経験をしたことがなく、その結果島固有の発達をした生態系を持つ特有の生物に出会える〝東洋のガラパゴス〟との異名を持つこの島に、陸路で行けない集落があることは知らない方も多いようです。西表島西部地区白浜港より一日5便(夏季)の高速艇に乗って10分の場所である船浮。今回は離島の離島と呼ばれる場所を体験したくやってきました。
八重山に於ける戦争被害というものが、マラリア有病地への強制疎開を強いられた結果起こった戦争マラリアであったことは以前記述しました。史上稀に見る地上戦といわれる沖縄戦とは違って、八重山に於ける戦争は艦砲射撃と空爆によるものだったため、戦争の遺構というものが相対的に少ないことは色々なものに書かれています。その数少ない戦争の遺構のうちのひとつにこの船浮という場所が挙げられています。
船浮臨時要塞(ふなうきりんじようさい)。軍部の元々の構想では大正8(1919)年から対米有事の際に、北海道から台湾に至る水際に臨時要塞を構築し敵艦隊や潜水艦隊を迎撃するための海軍作戦の拠点を確保するという目的でした。しかし大正12(1922)年2月に締結されたワシントン海軍軍縮条約の防備制限条項の対象になってしまったことから建設は中止されました。その後戦争という暗黒の時代に突き進む中で、日本は条約そのものを破棄するものの要塞建設再開には長い間至りませんでした。
その後泥沼化していた日中戦争からの脱却を図ろうとした軍部は、東南アジアへの侵攻作戦を国策とし、輸送ルートの警備と支援のため臨時要塞建設計画を復活させました。昭和16(1941)年6月陸軍築城本部の軍用船がこの地に来航し、内離島・外離島・サバ崎・祖納などに上陸し、要塞用地を半ば強制的に接収し始めます。そして同年7月には臨時要塞建設命令が発せられ、8月に着工します。要塞法の適用で住人は住んでいた場所を追われた上、陣地構築には駆り出されるなどした突貫工事の末10月にはほぼ工事を完成させました。
昭和16(1941)年9月には船浮要塞司令部・要塞重歩兵連隊・陸軍病院等が編成されて配備に就き、内離島に要塞司令部(司令官:下永憲次陸軍大佐)・陸軍病院・一個中隊が、サバ崎には守備隊、祖納には一個中隊が配置されます。
南方への輸送支援のために作られた船浮臨時要塞ではありましたが、その後太平洋戦争の戦局悪化に伴いその役割も解消してしまったため、昭和19(1944)年3月の沖縄守備第32軍の創設とともに要塞部隊はその隷下に入り、下永司令官は第7方面軍司令部に転出した後、第2代司令官丸山八束大佐も昭和19(1944)年5月には舞鶴要塞へと転出し、要塞司令部は解消。重歩兵連隊は重歩兵第8連隊(連隊長:入野大二郎中佐)と改称し、八重山守備軍の独立混成第45旅団隷下となり※2個中隊を除き石垣島開南へと移動します。この重歩兵第8連隊の石垣島への移動と同時に船浮臨時要塞は事実上閉鎖となります。(※残存兵力として2個中隊と記載されていますが、石垣へと移動した兵力を考えると2個小隊とするのが正しいように思います。)
その後沖縄本島から第4遊撃隊第4中隊のゲリラ隊が派遣され、八重山に於いて兵役適齢前の少年200名を集めて〝護郷隊〟を作り、敵上陸後のゲリラ戦を想定した訓練を続けましたが、実戦に至らぬうちに終戦を迎えています。実際にはそれ程の規模での訓練があったかなかったかさえ曖昧なこの第4遊撃隊第4中隊のゲリラ戦訓練でしたが、配下の下士官に八重山に於ける戦争被害を語るに欠かすことのできない人物がいました。山下虎雄軍曹、波照間島に於いて強制疎開を力で従わせ、結果戦争マラリアに罹患させ多数の死者を出したとされる〝離島残置工作員〟の一人です。詳細は〝忘勿石〟の章で述べることにことにしますが、ゲリラ戦訓練というよりもは〝軍の駐留に協力的な人間を育成し、後に備える〟的な思想教育みたいなものをしていたようにもみえます。
陸軍主導で建設された船浮臨時要塞でしたが、昭和19(1944)年3月を持って事実場解消となりました。しかし僅かばかりの数ではあったものの海軍石垣島警備隊指揮下の海軍部隊がこの船浮に駐屯していました。現在の船浮集落を囲むように要塞の所属部隊が配置されていたのに対し、海軍部隊は船浮集落そのものに配置されていました。船浮臨時要塞建設時に要塞法を適用し、住人を西表の上原へと強制的に移住させて船浮集落に特攻艇格納庫や壕などを建設しています。住人がいない状態での陣地構築だったため、詳細がわからないまま現在もその遺構が残っており、70年前の戦場だったことを静かに物語っています。
船浮港から集落は右手方向へと進みます。今回私がお世話になった〝ふなうき荘〟は、〝東郷平八郎上陸の地〟標識をイダの浜方向へ曲がってすぐのところにあります。珍しく〝日の出〟を堪能した後、勢いで船浮港を経由して、港から左手に進むとある〝避難壕〟へと向かいます。入口には竹富町が〝落盤の危険性〟を警告する看板があります。専門的なことはわからないのですが、岩盤の崩れる音がしなければとりあえず…と聞いたことがあり、耳をすませて音を聞きましたがそれはなし。後は自己責任ということでそろそろと歩いて行きます。僅かな距離しかないため暗闇が気になることはありませんが、やはり気持ちに余裕がなかったのか、壕から見えるはずの格納庫への別れ道を見逃しました。壕を通り抜け、震洋格納庫・発電所跡・弾薬庫までは確認しましたがそれ以上は…。おまけに〝蚊柱〟に顔を突っ込んでしまい、手で払っているときに油断してバランスを崩し崖から足を踏み外してしまいました。その後膝は痛むものの旅行を続け、4日後に自宅へ帰ってから整形外科を受診。一番悪くて半月板と内側側副靭帯の損傷だと言われました。
勿論自己責任で動いているため全て自分が悪いのですが、実はこの壕を抜けた場所は携帯圏外エリアです。ここで身動きが取れなくなると間違いなく捜索されるでしょう。不覚でしたが、お世話して頂いた方々に迷惑を掛けなかったことだけが救いだったかも知れません。
現在では船浮集落までしか定期航路を使って行くことができません。もし内離島や外離島、サバ崎へと向かうならば、ツアーか船のチャーターを利用するしかありません。あまり準備不足で回られることはお勧めできないので、じっくり相談してルートを決めて頂く必要があると思います。
ベニヤ板で作られた海軍の特攻艇〝震洋〟は石垣をはじめとした八重山諸島にその格納庫跡(らしいものも含め)を結構な頻度で見つけることができます。八重山では実際に〝震洋〟を使った特攻はされなかったものの、帰ることにないone wayの旅路につかねばならなかった若者の気持ちに触れることができるのではと思います。今更戦争の是非論をいうつもりは毛頭ありません。それよりこれら戦跡に関心を持ち、なぜ戦争を戦わなければならなかったか?そういう建設的な姿勢が必要な時期に差し掛かっているように思います。西表屈指のイダの浜、その裏手にある戦跡の遺構を併せ持つ船浮の集落は、1時間半あれば回り切れる場所かも知れません。
確かに1日4~5便の船に合わせて行程を組まなければいけない場所ではありますが、それだけの魅力を持つ〝離島中の離島〟に違いありません。
これで〝第十五章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~西表島:船浮臨時要塞遺構編~〟を終わります。